小牧正英 お別れの会

予想外のことが起きるのが研究である。ある意味創作の現場に似ているのであるが、予想外にうまくいかなかったり、いろいろ支障が生まれても進めていくのが大切である。
そんなわけでまったく予想外だったのだが早稲田大学演劇博物館まで資料閲覧に行く。演劇博物館には坪内逍遥の部屋がある。立ち寄ったときに常設展や逍遥の部屋、そして展示を見ることもある。


イプセン没後100年記念展 日本におけるイプセン受容の歴史

 現代舞踊でも翻案されることがあるイプセンの資料が明治期から展示をされている。帝国劇場より少し前の資料や、島村抱月との関連で取り上げられる資料の部分だけ見る。評を書けるほどじっくり見ている余裕がなかったので通過のみ。同じフロアでやっていた演劇の方の展示はスケジュール上パス。

早稲田大学演劇博物館)

その後、早稲田を離れ、日比谷に移動する。帝国劇場(東宝)(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E5%8A%87%E5%A0%B4)がある皇居のお堀端に出る。ジャンル的には芸能史といわれることがあるのだが、松竹や東宝の資料も見ていると面白いこともある。演劇博物館の常設展の資料と部分的にシンクロする。

行き先は東京会館である。先日他界した小牧正英のお別れの会が開かれたためだ。



小牧正英 お別れの会

上海バレエリュスで主役を務め、戦後、「白鳥の湖」を旧・帝劇で上演し社会的にヒットさせることでバレエを日本社会に認知させたのが小牧正英だ。お別れの会の発起人には谷桃子、太刀川瑠璃子森下洋子らが名前を連ねていた。
戦後直後の日本で東京バレエ団以外では大きなバレエ団といえば小牧バレエ団だった。小牧は銀座交詢社でスタジオをはじめ、そこに若者が集まるのである。彼は経営の才能にも恵まれており多くの門下を輩出した。「白鳥の湖」というネーミングをつけたのも小牧である。それまでこの作品は「白鳥湖」と呼ばれることもあったが、「白鳥の湖」とした方が売れると言い出し、実際に社会的にヒットを飛ばしたのは小牧の成すところである。

戦前はバレエより現代舞踊が日本社会では有名だった。バレエも上演されていたが、オリガ・サファイアらがいた東宝日劇ダンシングチームの方が若者に人気があったという。その当時、「白鳥の湖」も「カルメン」も上演されていたが、本格的だといいがたいところもあったようだ。上海バレエリュスできちんとしたレパートリーを身につけた小牧が日本に帰ってきたから本格的な作品が上演されるようになったというのも事実だ。
お別れの会では故人を偲ぶ挨拶の中で、業績とエピソードが語られた。

長老の舞踊批評家の一人、桜井勤は1960年前後から批評活動を始めている。それ以前の50年代の舞台を現在知っているのは、学生時代から批評活動を始めた山野博大や浦和眞(うらわまこと)ぐらいだ。もちろん、戦後の「白鳥の湖」を見ている批評家はもうこの世の人ではない。
しかし戦後のバレエ界を担ってきた面々が久々に集まった。谷をはじめ、かつての小牧バレエ団の面々が約40年ぶりに集まった。私が知る限りでは東京バレエグループを結成することになる横井茂や雑賀淑子も出席しており、その姿が現役ダンサー時代の写真と重なるのである。雑賀のこんなインタビューがネットにアップされている。http://www.kk-video.co.jp/comments/toki/index.html

今は遠くなった戦後の日本社会の思い出の一頁と立ち会った気分となった。そして新しい新世紀の彼方へと時はただ歩みを進めていくのである。

東京会館 ローズルーム)

一方で、同じ小牧出身でバレエ・デゥ・ブルゥを結成することになる高橋彪は顔を出していなかった。どちらかといえばファインアートよりの当時の若者、現代の舞踊指導者・舞踊家、批評家が集まった。批評家で言えば、蘆原英了や光吉夏弥、大田黒元雄は故人であるが、彼らと実際に接していた世代の人々が集まったような感触がある。
舞踏やコンテンポラリーダンスも過去からの人の連なりから出てきたものだが、特にファインアートよりの人の流れを感じた一夜でもあった。