谷桃子先生

5月3日、東京・青山斎場で谷桃子先生の葬儀が行われました。当日は良く晴れ、吉田都さんのようなスターも多く、通夜には小島章司さん、本葬には折田克子先生が出席するなどジャンルを越えて別れを惜しむ人たちが多く集まりました。
私は戦後のバレエについて論文を出した時に、谷先生にインタビューをしたことがあります。当時、80代でしたが記憶が鮮明であったことを印象深く覚えています。

谷桃子先生は石井歓と同じ年ですが、子どもの頃に観たアンナ・パブロワの「瀕死の白鳥」がその原点にあります。この時、白鳥が死ぬシーンで「あっ」と叫んだといいます。その後、布などを使って動いてみたりしていたところ、もともと身体が弱かったこともあり踊りを学ぶようになります。石井漠や石井小浪と学び、小浪からはスター性を受け継ぐことになります。その後、バレエと出会い「白鳥の湖」、「コッペリア」、「ジゼル」、「火の鳥」、「ドン・キホーテ」など戦後のバレエ・ブームの火付け役の一人としてバレエ界で大きく活躍するようになります。映画「赤い靴」で知られる英国ロイヤル・バレエ団のモイラ・シアラーから赤い靴をプレセントされたことも話題になりました。

優しい人柄で様々な人々と交流し、その世界はバレエ界のみなく多くの美術家とも交流をしています。その影響は日本国内にとどまらず海外へも広まりました。芸術界全般に影響を与え、三島由紀夫に「軽やかさ、その憂愁、そのエレガンス」と評されました。
舞踊批評家協会からバレエ団に本賞(http://d.hatena.ne.jp/yukihikoyoshida/20100418)を、今年は伊藤範子さんに新人賞を出した時も、本当に喜んで下さっていたとのことです。最期をみとった高部尚子さんは「ジゼル」の一幕のラストの情景の様であったと述べたといいます。先生と縁が深い原点ともいえる「瀕死の白鳥」がかかり出棺となったことは今でも忘れがたいものです。青空の下、バレエ団、舞踊家のみならず舞踊批評家、多くの関係者が長い列になって見送った春の午後でした。


モイラ・シアラーから贈られた赤い靴。