追悼・石川健次郎、三枝孝栄

コロナが世間に蔓延しだした2020年夏に二人の日本舞踊の批評家が旅立った。石川は檜健次に洋舞を学んだこともあったが、日本舞踊の批評家になる(檜のパートナーは藤間喜与恵である。)賀来良江やケイ・タケイ、石川須妹子らとすれ違っていたため、洋舞界にも一定のつながりがあった。彼は初代・吾妻徳穂の最後を看取った批評家でもあった。故に藤間のことも語ってくれたが特に吾妻の事を多く述べた。日舞の批評家の中では古典舞踊ではなく新舞踊に力を入れていたとされる。妻が西川流の家元だったため、文化庁などの公の仕事はしなかった。招待席に座ることも好ましいと思っていなかった。家では三弦をひきながら長唄を唄い、そして酒を嗜む人だった。藤井修二や伊藤喜一郎らと同じようにNHKで仕事をしていたが、雑誌「日本舞踊」などで活躍をした。戦後直後の新舞踊運動の雰囲気を語っていた。その見識と存在は一目置かれており、英文学者の父を持つ大駱駝艦の田村一行は日本大学時代の恩師に当たる石川の講義ノートを捨てられないと回想する。彼は同時に頑固者としても“意見は1つ、価値観は1つ”ということをいっていた保守派で原則に忠実な頑固者でもあった。

三枝孝栄は石川のこの頑固さについて「高卒でNHKにはいって、中継の仕事とかしていたから」と述べている。いわゆるたたき上げのノンキャリでもあった。例えば舞踏の笠井叡に対して“ああいうのは無視”と述べた。戦後の創作舞踊で活躍した花柳照奈は若手のパフォーマンスに批評家として八巻献吉と石川を必ず呼んでいた。花柳は前衛書家の上田鳩桑に書道を子どもの時に学んだことがある。創作と古典の両方を熟知していた。評論家の二人の中で古典の側が石川なのだが彼は創作についてコメントはとても少なかったという。なんとも石川らしい逸話だ。

三枝は慶應義塾大学の出身で長唄研究会の出身である。学生時代に折口信夫と接したこともあった。藤田洋と同じ見解をもち”彼は一段と高いところにいた”と語った。学生時代から日本舞踊家の稽古場に出入りをしており、ブランド大学を卒業した後はテレビの仕事をしてきた。故に“彼は世間を知っている人”といわれ、彼はまたは長年つきあった石川の頑固さに上のような見解を持っていた。石川と三枝は互いに親しく、また対照的な二人だった。三枝の娘は岩井流の日本舞踊家(岩井梅我4世)で、今は孫娘の5世の時代である。彼は三島が関係する台本などを書いたこともあり、児童舞踊の詞も残している。共に戦後を代表する邦舞の批評家だった。ここに冥福を祈る。