小島章司の古希を祝う会

 「私は腐葉土になる」という言葉がある。小島章司が最近語った言葉だ。日本の様々なジャンル・シーンで”後進を育てる”ということがテーマになっているが、小島は日本のフラメンコの第一人者でありながらもなおかつ後進を育てることにも力を注いでいる。”小島章司の古希を祝う会”が3月14日グランドプリンスホテル赤坂「五色の間」で開かれた。


―スペイン国王より授与された文民功労勲章エンコミエンダ賞―
画質が悪いのはご了承ください。(C)Yukihiko YOSHIDA

 日本のフラメンコの歴史は戦後世代の尽力によるものが大きい。日本のスペイン舞踊・フラメンコの原点は河上鈴子である。河上は神戸で生まれ幼少の頃に上海に渡り、上海時代にバレエとスペイン舞踊を学ぶ。1930年代の日本には東京では大野一雄のエピソードで有名なスペイン舞踊のラ・アルヘンティーナやフラメンコのテレジーナ・ボロナートらが相次いで来日をしていた。河上が東京に戻って活動をはじめた頃は丁度そんな時代で日本にもスペイン舞踊ブームが起きてくる。現代舞踊やバレエのみならずスペイン舞踊にも力を注いだ執行正俊や益田隆といった舞踊家たち、そして宝塚や日劇の存在も同時代にはあった。(http://d.hatena.ne.jp/yukihikoyoshida/20100211
 河上の下からは多くの門下が出たが、戦後の若者たちが出会ったのがピラール・ロペスの来日公演である。アントニオ・ガデスもこの時に来日をした。その公演で衝撃を受けた若者たちが日本にフラメンコを育んでいく。
 小島は音楽大学に学んだ。オペラ「フィガロの結婚」に出演したときの体験がきっかけになり表情や仕草に関心を持つ。そして谷桃子の下にバレエを学びに行くことになる。そして現代舞踊などを経て出会ったのがフラメンコだった。斉京昇に学んだ。この頃、フラメンコを学んでいた舞踊批評家の市川雅とも擦れ違っている。


―当日のステージ―
画質が悪いのはご了承ください。(C)Yukihiko YOSHIDA

 小島は66年に列車でヨーロッパに渡り、スペインで活躍をする。その時の仲間たちがクリスティーナ・オヨスをはじめとするスターダンサーといえるようなバイラオーラや優れたギタリストたちだった。76年に帰国し日本で活動を開始する。その後の日本での活躍はいうまでもない。そんな小島は徳島県牟岐町出身だ。豊かな自然の中での体験も原風景にある。

 今日では「日本はフラメンコの第二の故郷だ」といわれている。小島は情報化とグローバリゼーションの今日においてフラメンコは文化が混合する現在において大きな意義のある芸術だとも指摘する。現在、新国立劇場バレエ研修所で若きバレリーナたちに指導することにも取り組んでいる。研修所を修了し活躍しているのが本島美和や小野絢子らだ。そんな小島を祝い、フラメンコ・バレエ・現代舞踊といった舞踊界の関係者のみならず現代日本の多くの文化人たちが集まった。