小森敏と伊藤道郎

Dance Session 2010

 今年の本企画は音楽家アルベニスの世界を近代と現代のそれぞれの作品で楽しむことができるという内容で注目を集めた。
 “アルベニスのタンゴを踊る”では小森敏と伊藤道郎の2人の近代を代表する舞踊家の作品が上演された。帝国劇場一期生が石井漠であり高田せい子であり、そして小森だ。さらに伊藤道郎も若い時に帝劇の作品に出演をしている。日本の現代舞踊のパイオニアの作品をみることができる優れた企画だ。
まず小森敏の「タンゴ」を松元日奈子が踊った。この作品は1937年の第二回帰朝公演で踊られている。小森というと石井漠の「明暗」で踊ったり、初代藤蔭静枝とのヨーロッパでの活動、欧米で東洋風の舞踊として評価をされたことからオリエンタルな作品をイメージしがちである。しかし本作は"サハロフの舞踊をみて自らに通じる親近感を持った"というエピソードを想い起させるように、あえていうなればモデルネタンツ、サハロフを彷彿とさせるようなタッチの作品だ。サハロフには石井漠も憧れた。黒いドレスの女がさっそうと歩くと回転していくだけの作品なのだが間合いも活かされている。戦前のパリの雰囲気も感じとることができる洒落た作品だ。戦後、セルジュ・リファールが来日をするが、その時に踊ったリアンヌ・ダイデは小森に東洋舞踊を学んでいる。小森の取り組んだ舞踊を感じさせる作品だ。そしてその伝統は弟子の藤井公・利子の小品にも通じる持ち味がある。その洗練された作風に藤井は戦後の現代舞踊のトーンや民衆の生き様を加えた。
 続く伊藤道郎の「タンゴ」(1927)は伊藤胡桃の息子である武石光嗣が踊った。武石はキミホ・ハルバートのグループUnit Kimihoや優れたバレリーナの西田佑子と踊る新世紀のバレエ界を代表するダンス・ノーブルの一人である。スーツに帽子の男が腰に手をあてて踊るとサパテアードを踏む。ごくシンプルなフレーズだが音楽性のある作品だ。若き日の伊藤はニューヨークのグリニッチヴィレッジのネイバーフッド劇場で1918年に「鷹の井戸」を踊っている。この頃、伊藤と山田と小森は生活苦の中で共同生活をし、“日本人の感性を生かす新しい東洋舞踊の必要性”を感じたという。その発想は二人の作品にそれぞれ活かされている。
 伊藤と小森はそれぞれさらに幾つか共通点を持つ。一つ目は舞踊家になる前にそれぞれ歌劇にあこがれオペラ歌手を目指していたことだ。小森は東京音楽学校に学び帝劇歌劇部でも三浦環に学んだ。弟はオペラの小森譲だ。伊藤もまた三浦に学びオペラ歌手になるためにヨーロッパに渡り舞踊家になる。これは当時の先駆的な若者がオペラに憧れたということが解るエピソードだ。さらに二人ともヨーロッパでダルクローズの学校で学んでいることだ。その時代ならではの優れた作品たちということができるだろう。
 小森の舞踊は舞踊批評家のアンドレ・レヴァンソンが評価したということも良く解る優れた舞踊である。パリでバレエ・リュスやロルフ・ド・マレによるバレエ・スエドワが活躍をしていた時代、ディアギレフやリファールが活躍をしていた戦前の良き時代のモードを感じさせる。その時代にヨーロッパに渡り、レヴァンソンやリファールを翻訳・紹介したのは舞踊批評家の蘆原英了であった。その作品はダイデが学んだ事もわかる芸術性の高いものである。蘆原はバレエを重んじ、戦後リファールの招聘に関わることになる。蘆原に対して双璧をなした舞踊批評家の光吉夏弥は来日をしたクロイツベルグやサハロフを絶賛し現代舞踊の新鋭作家たちのことも評価をした。伊藤道郎の活躍については特に記す必要もない。優れた舞踊を帝劇を知る舞踊家たちは世界に向けて送りだしたのである。
 さらに現代の作家たちの作品も楽しむことができた。アルベニスはドビッシィも影響をされたという音楽家である。フラメンコ、モダン、バレエのアーティストたちが舞台を彩った。フラメンコでは宝塚出身の蘭このみスペイン舞踊団「鼓動〜マルティネーテ&シギリージャによる」では民族性をいかして華やかに盛り上げた。創作では楽曲のフレーズを用いた作品が印象に残った。原島マヤ「秋のワルツ」では椅子をつかって空間を変化させていくなかで北野友華らが踊った。さらに「残光」では耷川真理子が音楽に沿った踊りと照明のドラマから確かな作品を導いた。
 来年、日本の洋舞は若き日の小森や伊藤が親しんだ帝国劇場から100年を迎える。優れた音楽と舞踊が新世紀の彼方へ育っていってほしいものである。

(さいたま芸術劇場 大ホール)