河上鈴子・江口隆哉 墓参

"Pilgrimage"という言葉がある。「巡礼」という意味だが、聖人や偉人の記念碑や墓を訪れるときなどにも使うことがある。先日、江口隆哉・河上鈴子メモリアル・フェスタが行われた。先生方を偲んで墓参も計画されており、河上鈴子先生の23回忌の墓参に足を運んだ。東京を朝出て、静岡県の富士霊園に昼過ぎに到着する。

(写真映像が悪いのは機材が不調のためである。)


(C)Yukihiko YOSHDIA
最寄りのJR駿河小山駅から

河上鈴子先生という舞踊家は雪に縁があるとのこと。昨晩からの冷え込みに雪になるかもしれないと思っていた私は偶然に驚く。富士霊園というのは駅からバスでしばらく行った山中にある。


(C)Yukihiko YOSHIDA

 晴れていると富士山がきれいで春の桜が美しい墓地との事。見ての通り、雨が降っており、冷え込んでいる。雪になりそうな天気である。午後、墓参をする。23年前の葬儀の時も雪が降り、先日の江口・河上メモリアル・フェスの翌日も東京の一部に雪が降ったようだ。

 河上鈴子先生はこの国のスペイン舞踊・フラメンコの起源にあたる舞踊家である。明治35年に日本に生まれ4歳で上海に渡りバレエと5歳の時に出会う。当時、上海には独特の音楽・舞踊文化の土壌が日本でいう明治維新より前から形成されてきていた。河上の初舞台は明治45年のことでまだ学生の10歳の時だ。後に小牧正英が上海バレエリュスで活躍することになる上海ライシャンシアターで踊った。*1若くしてプロになったが上海でスペイン舞踊と出会う。「サロメ」(大正10年)が認められニューヨークのパラマウント劇場に出演するなどアメリカ各地で公演したのは有名なエピソードだ。21歳にはシベリア鉄道経由で欧州・アメリカ舞踊行客もしている。アジアでも踊った。アンナ・パブロワの師だったコチョスカヤらにバレエやスペイン舞踊を学ぶ。親が上海で仕事をしていた事も背景にあった。*224歳からスペイン舞踊に転じた。”アイーダ上海”とも言われ、ポール・ホワイトマン・バンドで踊った大スターだった。
 昭和7年に30歳で研究所を銀座に開設している。(後に蒲田に移った。)時期を前後するようにこのジャンルを代表するアーティストたちが来日する。昭和4年大野一雄のエピソードで有名なスペイン舞踊のラ・アルヘンチーナが昭和6年にフラメンコのテレジーナ・ボロナートが公演を行った。ボロナートに憧れスペイン舞踊を学んだ舞踊家にはバレエの友井唯起子も上げることができる。*3河上はボロナートにも学んだ。江口博が述べるようにやがて昭和初期の日本ではスペイン舞踊のブームが起きてくる。河上は日本で活躍をするようになったがハワイ、アメリカ、南米などにも足跡を残している。スペインでも学び、戦前の日本でフラメンコに関するメディアも手がけた。
 パートナーは天野芳太郎といいペルーに天野博物館*4を作った事業家・古代文明研究家だ。後年、天野はペルーに行き、河上は東京に残ることになる。河上が他界する年まで変わらないサイズの服を毎年バースデーの7月14日に送り続けたパートナーの姿を前田華林は回想する。

 その若き日の姿を弟子の山田恵子は次のように述べる。

「お若いときはスーツにボウシ毛皮のストールで銀座を散歩され、足には保険をかけて話題になり、モダンガールとして有名だったとか」
山田恵子,『河上鈴子先生と私』,「江口隆哉・河上鈴子メモリアル 2010.1.10」,社団法人現代舞踊協会,2010

 現代のフラメンコの踊り手たちにもインスピレーションを与えそうなエピソードだ。スケールの大きな巨人の一人である。

 昨年、河上先生の弟子でもある香取希代子先生が他界をされた。戦後、フラメンコを日本に根づかせたのは山田や小島章司、小松原庸子、長嶺ヤス子らのジェネレーションである。彼らはアントニオ・ガデスも来日したピラール・ロペスの公演を見ることで大きな影響を受けた。現代の若手作家はさらに若い新世紀の舞踊家たちから影響を受けている。しかし山田が語る河上のイメージは日本社会が昭和初期の日本で活躍するモダンガールのイメージを我々に与えてくれる。河上先生はスペインに学ぶが、その目に戦後のフラメンコはどのように映ったのであろうか。門下からは宝塚で教えた河上五郎や山田、小島や舞踊批評家の市川雅の師にもあたる斉京昇(現・ぺぺ)、現代舞踊で活躍をした前田華林をはじめ多くの舞踊家を輩出した。河上の相手役を踊った戦後を代表的な男性舞踊手たちも少なくない。バレエの江川明は河上と初舞台を踊った。現代舞踊では北井一郎や池田瑞臣らが河上と踊っている。
 小島は”グローバリゼーションの今日の中でフラメンコは文化の混合の場の芸術”だと語るが、戦後世代の豊穣な成果を考えると日本社会にとってフラメンコ芸術は重要なジャンルといえるように思う。今日では”日本はフラメンコの第二の故郷”と言われるようになったとも小島は述べる。



先生が好んだ煙草とお酒をお供えして。
(C)Yukihiko YOSHIDA

 富士霊園というのは多くの舞踊家が眠る霊園でもある。江口隆哉先生の墓所もここにあり、私はこれまで何度も江口先生を批評や論考、そして論文で論じてきたこともあるため、(「江口隆哉・河上鈴子メモリアル 2010.1.10」,社団法人現代舞踊協会,2010に江口を論じた私の論考の出版データも収録されている)長い間墓参をしておきたく思っていた。
 昨年12月25日は江口隆哉先生の33回忌もあり墓参が行われたのだが、私は所用のためどうしても参加できなかった。そんなこともあり、河上先生の日に墓参をして一緒に江口先生の所も訪れるつもりでいた。長年の願いを実現することができた。



(C)Yukihiko YOSHIDA

 いずれにせよ江口・河上に限らず創成期に活躍をした洋舞家たちの労苦と尽力があってこそ、現代の洋舞界、すなわち新世紀日本の洋舞は存在するのだ。 ジャン・リュック=ナンシーではないが、生きることは死者たちとの対話とも考えることができる。国民国家に限ったことではないが、今日の舞踊文化を考えるとするならばその源流を知ることは重要である。

 雨の中の墓参だった。河上先生の近くに眠る山田五郎先生のお墓にも足を運び、手をあわせてきた。東京に着いたら夜になっていた。”どうやら明日の東京は雪になるらしいと”いう気象予報を街の情報サービスで目にしたのであった。

*1:関口紘一,「上海のバレエを訪ねて」http://www.chacott-jp.com/magazine/world-report/from-others/others0705.html

*2:エリアナ・パヴロバやマーゴット・フォンティーンの記録から有名だが、上海にはバレエスタジオが幾つか存在した。マリインスキーのソリストで来日も確認されたクリチェーフスカヤ、ゴンチャロフや名教師として知られることになるヴェラ・ヴォルコワなども教えている。クリチェーフスカヤに河上は学んだこともある薄井憲二は2008年にエリアナ・パブロバの作品再演に際して述べている。

*3:法村康之、友井唯起子夫妻は戦後パリに渡りバレエをマダム・ステラに、スペイン舞踊をテレジーナに学んでいる。

*4:http://www.museoamano.com/jp/aboutamano-02.htm