三輝容子理事長を偲ぶ会

 ある大先輩と一緒に、先日他界した現代舞踊協会の三輝容子理事長を偲ぶ会に出席する。会場は昔の青山会館、今のフロラシオン青山だ。東京は初夏だ。涼しくそんなに暑くない。青山、赤坂界隈は着飾った人たちでにぎわっていた。


三輝容子理事長を偲ぶ会

 現代舞踊の普及と発展に尽力をした舞踊家、三輝容子を偲ぶ会が開かれた。会場には現代舞踊の関係者みならずバレエ界の重鎮や新国立劇場文化庁など多方面から関係者があつまった。故人に対して献花がされた後、作家の資料・舞台映像、主にダンスシアター・キュービックのもの、が流され、その後に故人の思い出話が多方面から寄せられた。
 作家は戦後の第一世代の現代舞踊の代表作家である。この世代で知られている舞踊家は後に堀内完とのユニークバレエシアターで知られる安藤三子や渥見利奈だ。当時、現代舞踊協会の選抜新人公演はまだなかった。そのため、早く作家として独立をしたのがこの世代である。7歳から高田せい子にならった。高田の門下で、同門で姉弟子や同世代は上記の安藤、小沢恂子、彭城秀子だ。三輝は昭和26年には音楽新聞・新人ベストテンに選出されている。昭和28年の全国舞踊コンクール洋舞第1部では第1位入賞、文部大臣賞・ホフマン賞受賞をした。この年、デビューリサイタルを日比谷公会堂で行った。NHKのテレビ番組「ブーフーウー」でキャラクターの振付し、TBSで「ロボッタン」の振付していた時に日下四郎と出会った。金沢で「アニトラの踊り」を踊った三輝の姿を覚えていて後に出会うことになったのは金沢出身の木村百合子だ
 現代舞踊協会の事業部長になったときからもう1つの恵まれた才能だったプロデュースに力を発揮しだす。そして芸術的な面では日下と共にダンスシアター・キュービックをプロデュースを通じて送り出す。さらにこの才能は政府や地方自治体といった行政との折衝の上で発揮されるようになる。国の予算編成の時期は舞踊という面から「文化国家日本」というビジョンの実現の為に政党や関連省庁を回るなど様々な活動を展開した。バレエの牧阿佐美と三輝は東京新聞のコンクールで共演をしている。後に共に橘秋子記念財団を設立もした。牧は「日本ではバレエを若い女の子を見るようにみるオーディエンスが多いが、バレエや現代舞踊を欧米の人たちは夫婦で見に来ている」と述べる三輝の姿を語った。このエピソードではないが21世紀日本において舞踊をさらに根づかせていくことは重要なミッションである。突然の悲報に驚かされた人々も少なくなかったと思うが、故人の歩んできた道は現在の舞踊界に様々な示唆を与えているものが多いように思う。

(ホテルフロラシオン青山 3F 孔雀の間)