追悼・藤井修治

 藤井修治先生が他界をされました。2015年11月18日に如水会館で偲ぶ会が行われ多くの関係者が集まりました。藤井先生は日本バレエ協会が設立された1958年はまだ学生だったといいます。東大を卒業され当時ごく数人の合格者としてNHKに入ります。世代的にはうらわまこと・山野博大・久保正士・市川雅らの20世紀舞踊の会の批評家たち、戦後の若者による最初の世代の中にいたと考えられます。

 藤井先生はNHKで「NHKバレエの夕べ」をはじめとする音楽・舞踊番組の制作に携わり日本の創成期のバレエ番組で活躍されました。そして現在のバレエやダンスの映像のカット割りや音楽の映像のカット割りの原型は、結果として藤井先生がつくることになりました。(これは日本の芸能に関する映像の歴史でも大きなことです。)
当時からバレエを中心に文章も発表されていますが、またそれのみでなくバレエ・ダンス界に多くの貢献をされます。例えば藤井先生の依頼から石田種生は日本の風土をテーマにした戦国三部作「枯野」、「砂の城」、「影武者」を発表しています。高橋彪が「エクリプス」を発表するために音楽で用いたい武満徹に連絡をとる時も協力しました。作品のプロデュース・台本も手掛けました。等、細かく上げていけば数限りないほど洋舞界への貢献は非常に大きいものでした。さらに番組制作の為に音楽の編曲も出来るほど様々な才能にも恵まれていました。現代的にいうなればバレエ・ダンスに関する映像コンテンツの制作のパイオニアとして活躍され、のみならず様々な面で洋舞界を中心に貢献されてきたという感じになるでしょうか。戦後の舞踊界にはそれまでのプリントメディアだけではなくテレビという当時のニューメディアから出てきた批評家たちがいます。同じNHKでは伊藤喜一郎(洋舞・生中継、ジャズ・レビュウ)、石川健次郎(邦舞)、後に民放へ行き作曲・評論でも活躍する三枝孝栄(邦舞)、TBSの名ディレクターでもあった日下四郎(洋舞)、テレビの技術に貢献した早川俊雄らがいますが藤井先生もそんな才能の一人でした。今日の電子メディアから出てきた批評家たちとも通じるものがあります。

 NHK退局後は邦舞・洋舞の両方で舞踊批評家として活動されました。といっても先生は自身の事をユーモアを込めて舞踊愛好家・フリーディレクター等と称されていました。いつも大変にお洒落な先生であり雅な才人として知られていました。花が好きで日本各地で花を楽しみ、また自然や表現芸術を愛されていました。「僕は偉くもお金持ちにもならなかったが舞踊から得たものは多かった」「舞踊界を変えるためには自分がもっと学んで変わらなくてはならない」といったこともおっしゃることがありました。
私個人が忘れられないのは2014年の夏に新国立劇場でお会いした時に「僕はNHKを辞めてから、売り込まないで原稿料がでる媒体に人から書いて欲しいと頼まれるがままに書いてきた。そんな僕でもただの一度だけこの人は自分が書きたいと主張して谷孝子さんに書かせてもらったことがあった。しかし自分から書きたいということを言わないことが、逆に自分自身を業界の書き手のようにしてしまい、今になって私はその事は悔いている」とおっしゃったことでした。このお話は強く印象深く覚えています。
Pureで純粋に踊りをみることが好きな書き手で、うらわまことの事は本当に踊りを見ることが好きな書き手だとほめていました。ダンスを出世の道具のようにしている書き手は嫌がっていらっしゃいました。

批評家としてはバレエ・現代舞踊など洋舞系を中心にオールドファンの心情に応える辛口の玄人好みの書き手でした。もし仮に舞踊批評家に前衛派・全体派・正統派という大きな枠組みがあるとすれば、バレエを中心にした正統派の書き手であったように思います。舞踊批評家の桜井勤先生や「舞踊藝術」の編集者だった井上道代さんと懇意だったこともあり、現場で本当にいろいろお世話になったこともあり、ここに先生の冥福を祈ります。