今年もメルパルク

夏のこのシーズンにメルパルクにいるとなると現代舞踊展である。この手の企画は同時代性といえる若手作家たち(今回は冴子、内田香が出演している)もいるが、通時性*1ともいえる時代の縦軸との関連も見逃すことができない。
 例えば正田千鶴は第一回公演のパンフレットに文章を寄せてくれた20世紀舞踊の会のメンバーだった山野博大、池宮信夫のことを今でも回想する。(このパンフレットの二人の文章はパンチのきいた実にいい文章だ。)時が流れて40年近く、実演家も批評家も戦後から新世紀へと時代の流れの中で歩み続けた。かつては現代舞踊の会の客席には永田龍雄や江口博たちがいた。そして今では20世紀舞踊の会のメンバーたちは彼らが若き日にであった洋舞第一世代、第二世代の批評家たちのように長老である。世代から世代へ、脈々と流れる人と時間の流れを感じるひと時である。*2
現代舞踊展 初日
媒体にてレビュー

メルパルクホールTokyo)

*1:通時性という言葉を使ったので触れると、ソシュールではないがチェスに喩えるならばダンスにおける同時代性ばかり協調する言説は「チェス的に言ってみれば、瞬間瞬間に成立する布陣における駒の内的な関連をしか考えず、指しの連続を見ていないということだ」http://www.froggy.co.jp/seiko/55/55-1/55-1-10.htmlといえまいか。ある意味で「同時代性」や「現代性」というのは非常に容易なタームであり、この曖昧な概念を解る、解らないという感覚的な水準で多様しながら、政治的に領域を立ち上げていくような側面がコンテンポラリーダンスには存在する。90年代以後になると、解る・解らないという線引きに情報文化、オタク的、自閉症的なコミニュケーションコードがさらに加わっていくようにも感じる。

*2:バレエでいうなれば、しばしば戦後のバレリーナたちが、帝国劇場でリハーサルをしていたら2Fの客席の中に彼らの姿があったとあたかも昨日のことの様に回想する。