「DANCE EXHIBITION 2006」
ダンスプラネットNo.21

<Bプログラム>
QWERTY
上田創、上月一臣、深井三実、石山雄三
「人形」
湊斐美子
「Chopiniana」
開桂子、岡本真紀、藤原智美、岡田桃園、中野真紀子
「ケース」
新上裕也
「Butterfly」
平山素子、中川賢
「no-side」
グー・リャンリャン、高頂

下にてレビュー

新国立劇場 小劇場)


Aプロ、Bプロ総評

[DANCE EXHIBITION 2006]
          吉田悠樹

今回の本企画は日本のコンテンポラリーダンスの作家を幅広く紹介した内容だった。作家のセレクションは幅が広いだけあり、現代日本の多様さを指し示している。Aプログラムは若干ポピュラーだが現代に焦点を合わせた内容だ。佐藤美紀「[c-e]」では開演前から舞台に四角形のグリッドが広がっている。山崎浩太が独り言のようなフレーズをつぶやきながら立っている。やがて日常的な出で立ちの踊り手たちが現れると、身体を使って遊ぶように動き出す。この芸術家の先端的な視覚表現はここ近年洗練されてきた。背景には白黒の格子状の模様やダンサーを包み込むような円形の照明などが登場する。ただし視覚効果によってダンスの動きの醍醐味が消えてしまうという難点も否めない。デジタルな発想がさらに振付などと絡むことで作家が用いているCMprocessならでは表現技法が出てきて欲しく思う。平多利江「消失にむかう地点の青」は定評のある踊り手によるソロだ。光の中から白い女が現れる。透明なガラスのような大きな板が舞台に置かれている。のびやかな動きはモダンダンスのスタンダードな動きともいうべきものである。平多は成熟と向かい合ってきたようだ。端正な動きと共に踊り手が向かっていく地平が描き出される。暗い闇の中ではガラスが宇宙空間のように青く不思議に輝く。幻想的なイリュージョンだ。青とは踊り手の身体が向かう地平なのかもしれない。キム・パンソン「Crush」はエレクトロニクスと向かい合あったときの人の感情の高まりを描いた作品だ。電子ギターやテクノミュージックなど人はエレクトロニクスと向かい合った時、どきどきわくわくするものだ。そんなスリリングな高揚感を素材にダンス作品を生み出した。ギターからエフェクターに変換をされたスリリングなノイズが流れると男性二人がお互いに掛け合いはじめる。ごくシンプルなコンタクトを活かしたフレーズやムーブメントだが背景にはちょっとした動きのラインとセノグラフィーである四角形のデスクの形が対比していることをなどから作家が美術的な感性がしっかりと持っていることを感じさせる。もっと激しさがあってもいいように思えるが面白みのある作品である。川野眞子「さーかす」は異形の踊り手のサーカス。舞台にはサーカス団の垂れ幕がいっぱいに広がり、その下でサーカスを繰り広げる。背中に桜吹雪の刺青が入っている女(川野)の恋物語が描かれ、サーカスに生きるものの一風景が描かれたかと思えば、再びピエロやアクロバットが繰り広げられる。作家のスタンダードなタッチともいえる内容であり、リンゼイ・ケンプの作品のような濃密な表現が見えてくると良いだろう。ユニゾンなどを駆使するのもよいが、凝縮されたイマジネーションがじわじわと現れてきて欲しいものである。
Bプログラムではモダン=コンテンポラリーの作家達も健闘を見せた。日本のコンテンポラリーダンスは石山雄三「QWERTY」だ。 踊り手が登場し、舞台を指差したり、壁を触れたりする。するとそこからCGが立ち上がる。テクノミュージックのノイズと共にダンスが展開する。情報過多の中の身体が描かれていく。ダンスの持ち味を削らないように、映像と肉体の関係が明確にデザインされている。その一方でもはやビデオダンスは現代社会の中では当たり前になったように感じる。動かない、揺れるなどポストモダンダンスからの展開を狙うのであれば、より思考が明確に見えるようになるべきである。あまり整理をしないでアイデアがふんだんに詰め込まれているようにも感じる。洗練させることも大切であろう。湊斐美子「人形」は椅子を前に白い踊り手が踊りだす。近年では小松あすかがこのような作風を得意としているが人形のように可愛らしくも妖しい女の魅力を表現する。もう一歩深みが欲しい作品でもある。定評のある作品を発表している作家だが長い作品も見てみたい。中野真紀子「Chopiniana」はM・フォーキンの同タイトルの作品よりインスピレーションを得た作品だ。舞台いっぱいに白いポワントを履いた女たちが現れる。F・ショパンの音楽が流れる中で、シルフィードたちは動きはじめる。彼女たちがバレエダンサーと異なるのは、動きの中に大地や自我を希求したモダンダンスの踊り手たちの残像が見えることである。この像が次第にさらに明確に現れてくる。白いチュチュを脱ぎ捨てた後、背中がはだけた状態で、前をみない踊り手たちは肉体を躍動させて踊る。作品は不発であり踊り手の本能を誘発させるような鋭い肉体に対する思考が必要であるようにも感じた。新上裕也「ケース」はジャズダンス出身の踊り手による優れたコンテンポラリーダンスだ。新上は次第にクリエーター的な感覚も抜け、アートとしての文脈からも捉えることができる明確な作品を踊るようになったようだ。舞台いっぱいにたくさんの蛍光灯が広げられている。椅子に座った男が動き始める。厳しく内面を見つめながら自身の美意識を描き出すような踊りだ。ショーダンス的な演出はもうなくなり、リリーステクニックなどに基づく現代ダンスのムーブメントの質で魅せるようになってきた。やがて男が蛍光灯に触れるとライトは消えていく。より作品を見てみたい作家である。「Butterfly」は平山素子と中川賢によるデュエットだ。スポットライトの中で、男女がそれぞれにそれぞれの感情を描き、お互いの感情のときめきから、飛び立つような感情の起伏が生まれてくる。リフトなどをつかいながら、足のラインの美しさなどで蝶の形態美を表現しようとしている。平山の近作の中では人気がある作品といえるだろう。グー・リャンリャンと高頂の「no-side」は韓国の二人組ダンサーによる自由なコンテンポラリーダンスだ。路上の赤いコーンが置かれている中で男たちは擦れ違う。やがてお互いに向かい合う。一方がズボンを脱ぐとストライプなパンツが現れる。相方が指差してその間抜けな立ち姿を笑う。自由で暖かい空気が舞台いっぱいにたちこめていく。
 現代舞踊は帝国劇場から新国立劇場まで積み重ねられた人々の歩みの中で形成されてきた。一連の作品はゆるやかにではあるが九十年代と一線を画する次世代の舞踊表現への射程の背景となる作品といえよう。
(九月十六日、十八日 新国立劇場小劇場)