アンサンブル・ゾネ、藤間章作

アンサンブル・ゾネ「Still Moving」

 関西で活動を重ねる岡登志子のアンサンブル・ゾネはソリッドなムーブメントの質感とストイックで禁欲的でミニマムでシンプルな感覚で人気を集めてきた。ダンスシーンでも活躍する在・ベルリンのピアニスト、高橋アキのライブ演奏とのステージはテンションが高いものであった。
 男・女が数人現れてシンプルなシークエンスを反復しながら舞台を斜めに直線的に動いていく。空中には灰色の布のような美術があるだけだ。続いて同じように舞台を斜めに使いながら2組のグループが加わり力強い身体表現を繰り広げる。叙情的な“群舞”ではなく、力強い動きを前面に押し出すような構成だ。
 次第に情景が展開し、女性ダンサーのソロや中央でポーズをとっているダンサーたちが1人づつ踊っていくといった風にシーンが展開していく。高瀬アキのピアノは呼吸を合わせるように舞台下からムーブメントに絡んでいく。高橋の演奏は現代音楽で今日スタイル化している鍵盤ではなくピアノ線をはじいてピアノを演奏していくようなものだ。肉体表現に合わせてパフォーマンス的な演奏方法を選んでいるのだろう。舞台の上ではエネルギッシュなダンスは続く。構成は現代のコンテンポラリーダンスだが戦後の邦正美やその門下生たちのように激しく動き呼吸する身体を物質的にみせるような下りがある。ベタではなく、叙情的でもなく、ソリッドに肉体像に集中して舞台を展開していく。ホリゾントの下方からダンサー達が横になってごろごろと現れる。そして彼らはゆっくりと大きく動いていく。そんな舞台の中に無数のピンポン玉が投げ込まれる。弾けて動き続ける玉を尻目にダンサーたちはアグレッシブに動き観客を圧倒する。舞台上方の布は実はビニールシートなのだが、ビニールがダンサーたちの上に降り注ぎ終演する。高橋のピアノや笠原朋子の舞台美術が今日の現代音楽や現代美術へ通じる世界を岡の肉体から導き出そうとしていたことは見逃せない。
 日本の30年代の江口隆哉や津田信敏の作品、彼らが影響を受けたラバンやマックス・テルピスに近いものを感じるのは、作家がドイツのフォフガング芸術大学舞踊学科を経てきたというのがあるのだろう。彼らが狙っているコンテンポラリーダンスは美意識が難しいところで、演出の仕方によっては叙情的なノイエタンツになってしまう。衣装も舞台美術もストイックに簡素にしていくことで現代美術に通じる渋い美意識を切り出してきている。かつてこのグループを見た頃は未完成だが様々なタイプのダンサーのムーブメントを活用している作風に圧倒された。今回接してみるとその作品からは比較的整理され様式をもってきたようだ。演出に走らず、かといって美術との境界線にも安易に逃げず、肉体と思考の根源から表現を立ち上げることが求められているように思う。これからの活動が楽しみだ。
(公開ゲネ シアターΧ)



間章作素踊りの会 創作「旅の行方」

 藤間章作はメソポタミア文明の「ギルガメッシュ叙事詩」に挑んだ。巨大な楔形文字レリーフの傍らに日本舞踊家が現れる。和装で矢島文夫らが紹介してきた今日のアラビア世界の源流にあたる古典を描いた。日本舞踊家がモチーフに使うことが多い神話世界を広く世界の神話に広げたというのが着想の面白いところだ。異郷と古典世界という二重に21世紀日本から離れた時空を神話物語として描くわけだから語り口や具象と抽象の接点が難しくなる。素踊りということもあり特に第二幕で踊りを介してストーリーを抽象的に描いていく下りは部分的に表現として成功していたと思う。演出はこのジャンルや広く伝統芸能ならではのスケール感溢れるスタイルを多用して奇抜なテーマに加えて圧倒した。東洋もアラビアもヨーロッパからみれば“オリエント”なのだが異郷を描写する上でユーモラスな一線があると今日との接点が生まれたかもしれない。同じようなモチーフをバレエやオペラで描くことは多いと思うのだが、中東の叙事詩に日本舞踊家が挑むということはあまり類がないものであり破格のスケール感と主題に対する焦点の当て方を引き出すためには踊りに対する演出・美術の側からの挑戦はあっても良かった。
国立劇場小劇場)