HotHeadWorks PASスタジオパフォーマンス

HotHeadWorks2006 ダンス=人間史6

藤井利子が語るそのダンスと東京創作舞踊団の半世紀

彩の国さいたま芸術劇場 中リハーサル室)




PASスタジオパフォーマンス430

ヨーゼフ・ボイスにヒントを得たダンス自由大学のスタジオパフォーマンスが開かれた。
「自分の自然」(構成・テクスト長谷川六)は広義に70年代以後のダンスのスタイルを利用した作品だ。踊り手たちがゆっくりと横から登場する。それぞれが自身の「自然な状態」をイメージをしているのか内面を見つめるように動いたり内向的な表情で四文字熟語や自分の名前を口にする。スペースに置かれた椅子にそれぞれが腰掛けたりポストモダンダンスのランニングやアクションの様に動き回ったりする。当時の踊り手たちと一線を画するのは無機質でまるでアニメーションのキャラクターやフィギュアのような演者たちの表情だ。無機質でありながら透明で、それでいて自分なりに世界を見つめようとしている。それぞれの身体は中央で群状に丸くあつまり、個々の肉体の部位は一体誰のものか解らない状態になる。そしてやがて1人1人の姿に立ち返っていく。
 舞台で踊る作家たちがアニメーションやキャラクターの様にみえる現象は広く現代ダンスの様々な諸相に見ることが出来る。例えば内田香のRoussewalz(http://www.kalin-net.com/roussewaltz/j/index.html)では洗練をされたスタイリッシュでアンニュイな乙女たちが「っー」と無声音で暗号のようなコードを発しあった後笑いあったりする。どちらかといえばハイソサエティで洗練された世界を好む女性たちの表現としては意外な姿であり、現代女性の悪ふざけが現れる。東京新聞主催全国舞踊コンクール現代舞踊1部で1位をとった横田佳奈子の作品のタイトルは「彼女的依存のバラード」(http://www.kk-video.co.jp/concours/tokyo2006_kessen/gen1.html)だ。作品タイトルを見ればそこに作家の新しい世代の言語感覚を感じ取ることが出来るだろう。20年ぐらい前の女性の現代舞踊のソロでは社会や男性に頼る若い女の姿が描写されるはずなのだが、横田の感性を感じるのはそこに「依存」というタームが入ってくることだ。チェルフィッチュのようなコンテンポラリーダンスの中にあるずれや笑いにも通じるものがある。しかしこういった現象は東浩紀によって論じられるポストモダン・オタク化によって論じられる文芸、サブカルチャーの諸相とは若干相容れない部分もあるように思う。(このくだりに関しては私のポストモダンの定義がJ・F・リオタールに近いものでいわゆる動物化に関する東の定義と一線を画していることもある。)Virtual Reality,Interactive Environmentの専門家であるスコット・フィッシャーがかつて私に語ったように、レンダリングをされたCGやパペットのような情報空間の中の身体と実世界のフィギュアや実演家の間にはリンクするものがあるともいうことが出来るだろう。
「public/private」(企画 中山志織)は中山、小池藍、平松歌奈子によるトリオだ。平松が舞台一方を指差しポーズをとっている。ゆっくりと動き出すと、残り二人がスーツで登場する。情景は変わり渋谷駅で電車の中に乗り込むサラリーマンの姿が描き出される。と思うと3人は私的な空間に戻り、椅子に座って笑い転げる。タイトルにあるように2つのスペースの中で起きる人間の姿を描いたような作品だ。作家たちが意識、無意識に描き出した世界が興味深い。中山は資質がある作家だが様々なスペースで作品を上演することが課題であるように思う。
幸内未帆「Waiting List (Work in Progress)」ではサイケデリックな女性たちが空間いっぱいに弾けて最先端のコンテンポラリーダンスを披露した。グループとしての練成度も高まり、また幸内自身が作家として東京という環境になれてきたのか、一段と短期間で優れた作品を上演できるようになってきたようにも感じる。様々なバックグラウンドのダンサーやワークショップ・クラスの参加者たちとそれぞれが勢いのある作品をみせた。彼女たちの動きは個人主義的なものでもというよりはそれぞれの踊り手のバックグランドを活かしながら展開しているといえるだろう。幸内は今年4月の箱田あかね作品では役者のように表情と雰囲気をがらりとスタイルを変えて舞台に立っている。実演家としての経験が豊かであり同時に自作の幅も広いのも事実だ。この作品は照明や演出を加えることで拡張することで中劇場でも上演できそうな作品といえるだろう。作家がNYCで学んでいたこともあり911以後のアメリカを濃密に感じた。
坂本知子「余白の人」は時間の流れを活かした作品だ。余白とは瀧口修造http://archive.tamabi.ac.jp/bunko/takiguchi/t-home.htm)の「余白」の事だろうか。奥野博と長谷川六と坂本が椅子に座ったり、ゆっくりと腕を動かしながら足音を立てないで流れるように動いたりする。中央で椅子に座って本を読む奥野の横に女性二人が立ちそれぞれに抽象的な動きを見せる。坂本は対象的に椅子とインタラクションを始める。やがて腰掛けるが、突然椅子が倒れる。と、同時に音が鳴り止む。そしてまたピアノが流れ世界に流れが戻ってくる。時間の流れに何らかのコンセプトを絡ませることでより現代的にも仕上げることができる作品のように感じた。
幸内はプロだが、若手作家たちは情報発信をする事が重要だ。現代社会はマスメディアの情報送信方式と異なり、双方向にパラレルに世界観を世界に向けて発信することが出来る時代だ。個人の世界観を育むことが重要だといえるだろう。

(PAS ダンスの学校)