第32回 現代舞踊展

第32回 現代舞踊展

中堅作家の試行錯誤

 本年度の現代舞踊展初日で中堅作家の試行錯誤が印象的だった。それぞれが新しい時代に対して挑戦をしている姿を見る事が出来た。
 杉原ともじ「電脳的欧州輪舞」は情報化社会を描く。コンピュータを思わせる巨大なセットを中心に少女達が幻想的な舞台世界を繰り広げる。白い踊り手達が人形の様に動く世界はポストモダンを感じさせ今後の展開が楽しみだ。島田明美の豊かな感情表現と島田美穂のポストモダン的な動きは対照的だ。さらに若林はるみの演技力、宮川かざみのムーブメント、川井久美子の明るいはつらつとした世界が目立った。
 川村泉「あいつもこいつも」は女の一生の様々な世界を扱った作品だ。川村の最大の魅力は「薔薇の木に薔薇の花さく」の様に思弁的でテンションの高い作風だが、この作品ではラフな持ち味とはいえ作家の構成が心に残った。70年代のレトロポップを感じる世界の中でゴーゴーガールや70年代の映画スターを思い起こさせる女たちが舞台を飾る。さらに緊張感が出てくると伸びる作品だ。同じように70年代を思わせた作品が田中いずみ「The Gate Way −未来への道−」である。舞台いっぱいにレトロなファッションの女達が広がる。やがて白いビニールの幕を用いながら踊り手達は舞台を描く。90年代にレトロなファッションは社会的にもブームとなった。川村作品と同様にそのような視覚表現の論拠が問われるであろう。
 坂本秀子「ツィガーヌ」には新しい世界に挑戦する作家の姿勢を感じた。ソロでも群舞でも練成された作品を描き出す坂本の新作はジプシーの女達である。色とりどりのシージョをかざした踊り子達がジプシーの踊りを見せる。最も印象的だったのはひときわ端整な顔立ちで目を引く吉原有紀である。ベテランならではの水準の高い演技もさることならしなやかで躍動感溢れる動きが見事だ。若手の渕沢寛子と野村真弓のフレッシュさも心地よい。
一方、戦後の現代舞踊でありながらも真船さち子「散り椿」はここ数年の真船作品の中でも印象的な作品である。銀色のスチールが寒々しい緊張感を与えている中、鍛えられた踊り手たちが表情豊かに踊る。門下の桑島二美子や小林藤子はいずれも作品のモチーフを重視する若手だが、その原点とも言える演出が効いた渋みのある世界である。正田千鶴「モンローウォーク−混乱を抱えた歩行者−」では水銀のような銀色の巨大な水泡がある衣装をまとった踊り手たちが強度の高いダンススペクタクルを練り上げた。さらなる一歩に期待がかかるが焦点となるのは肉体に対する思考であろう。片岡康子「風音」では朴豪彬と昆野まり子のデゥエットを軸に日本的で硬質な空気を持った作品のモチーフが描かれる。一方、加藤みや子「麗夢睡眠」では洒落た演出の中で夢世界が繰り広げられる。共に近年作家が発表してきた作品の様式やパーツの延長線上にある作品であり、近作をさらに練り直したという印象を受ける。
創世記の現代舞踊は思想家エドワード・サイードオリエンタリズムのように東洋的な作風が海外で評価されたものが少なくない。洋舞の踊り手達の多くが対西欧の意識を持っていた。その一方で日本の現代舞踊はアジアのモダンダンスの源流にもなった。本公演で作品を発表した作家の作風の起源に当たる表現はこの様な流れの中から形成された。戦後の現代舞踊は戦前と比べると大きく変化をしたとはいえ、日本人の多くは対西欧の意識を持っていた。市川雅は「亡命者と非亡命者」という批評(音楽舞踊新聞1969年1月5日掲載:「見ることの距離」)に於いて国境という国と国の境界線の上で揺れ動く戦後の踊り手達の意識の位相を論じている。例えば浅川高子、木村百合子といったマーサ・グラハム舞踊団に在籍した踊り手たちを例にアメリカと向かい合った時の日本人ダンサーの肉体と意識が描写されている。山野博大はポストモダン世代の加藤みや子、厚木凡人、本間祥公もアメリカを経て変わっていったと回想する。パックス・アメリカーナともいうべき戦後世代のアメリカと現在の若手にとっての9・11以後の現代アメリカは大きく異なるはずだ。
90年代初頭、批評家の四方田犬彦と小説家の島田雅彦はニューヨークで同じアパートメントに滞在した。この場には小説家の中上健次や批評家の三浦雅士を始め多くの文化人も滞在した。舞踊でも多くの作家がそこに出入りしていた。代表的な例は現在グラハムで踊っている折原美樹である。寺山修司論を発表している三浦は折原に連れられてピナ・バウシュを見に行った事からダンスと出会うのだ。
四方田と島田は90年代初頭に戦後世代の対西欧といた意識ではなく多元的で多くの場をネットワークする意識について語っている。現在は情報ネットワークでさらにその感覚はさらに一段と拡張しているはずだ。舞踊や肉体を論じる上でもこのグローバルな意識は重要となるだろう。舞踊学者スーザン・フォスターは肉体に対してそんな幅の広い視座を提起した1人である。
 現代ではオーストラリアや台湾、マレーシアに見られるトランスカルチャーというべき状態がヒントになる。長年ニューヨークに滞在した文明批評家の粉川哲夫は「ニューヨーク以後」と言うべき新しい感覚をオーストラリアに見出している。現代舞踊も台湾の舞踊研究では日本とは異なりグローバリゼーションやトランスカルチャーといった文脈から論じられている。この様なキーワードは日本に於いても大きな意義がある。特に中堅作家や若手にとっては作風を伝統に容易に着地させない事で新しいスタイルを確立する事が求められているのではないか。

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