Naked Soul, 月の会

Blue Bloody Sky Naked Soul 2006

媒体にてレビュー

(キリスト品川協会 マチネ)



第8回月の会
 
 テロリズムや戦争が続く世相だが、現代舞踊では人間の情念や内面を描いたような実存的な表現が多く見られる。日本舞踊でも勿論、深い慟哭や内面の葛藤を描いたような作品は多く見られるのだが、花柳茂珠の明るい踊りの表情が素晴らしかった会だった。
 洋舞の踊り手とも踊ることが多い花柳面は外来記「傀儡師」を踊った。面は扇を携え、肩から人形売りの箱をかけてユーモラスに踊る。この作品は江戸時代の芸人の日常を描いた愛らしい踊りだ。このトランスカルチャーな現代においてはなぜ日本舞踊の古典を踊るのかということが踊り手にとって大切になってくるように感じる。あたたかい作風に心が和むが現代において何故この作品を踊るかということが明確に出ると良いように思う。花柳秀弘は河東「乱髪夜編笠」を踊った。この作品の原点は江戸時代の「娘曽我凱陣八嶋」という曽我狂言における八百屋お七の狂乱の所作事(舞踊)だった。その後、歌舞伎では中絶していた作品である。後に町田佳声の勧めで藤間静枝が大正9年に復活上演し、他流派でも踊られるようになった。編笠をかぶった女が現れると、心の深みを表現したような真っ黒な舞台美術を背に服を脱ぎ捨て、やつれながら恨み心を踊る。作品そのものは非常に良い作品であることは一目で解るのだが、踊り手と唄に今一歩迫力が欠けていることが非常に惜しい。最後は乱れた表情を笠で被うようにして終わる。最後を飾ったのは花柳茂珠の地唄「鐘ヶ崎」だった。歌舞伎舞踊の名曲「娘道成寺」の一シーンを抜粋して叙情的にまとめた作品だが、同じように人間の心理の深層を描いたの踊りだ。だがこの作品では晴れやかな明るいセノグラフィー(美術:有賀二郎)を背景に、白い踊り手があたかも心の流れや想いから生まれる苦を達観したようにきりりと踊る。三味線に沿って流れるはっきりとした唄と共に肢体はゆるりと宙を走り、情ない男に対する女心が綴られる。この明るくも物悲しい世界は西欧文化の孤独とはまた異なる持ち味があり見るものの心を明るくさせた。

国立劇場 小劇場)



 ある作家とちょっとした話をする。その作家は90年代からコンテンポラリーダンスということで頑張ってきた世代の人なのだが、たまたま若い新世代の作家と一緒に公演をやって、「コンテンポラリー=なんでもありみたいな枠組み」で一緒にくくられるのもなんだかなと思ったということを話していた。その話はコンテンポラリーダンスそのものに対する批判ではなかったのだが、個人個人が、「個人名+ダンス」という名前でなんとかダンスと名乗っている感じで自分のことを「その人の芸名+ダンス」呼びたいといっていた。最近、こういう現象と出会うことが多い。
 個人主義ではないのだが、複数の人が1つの共通するイデオロギーやビジョンに表現を集約していくのではなく、個人が個人としてあればいいみたいなことを同時多発的にいろいろな人が様々な文脈で言っていて面白い。そしてその意識の位相は50年代、60年代と異なる。例えば舞踏であれば皆で舞踏という意識を共有しながらユートピアを夢見ていたという初期の状況があるのだが、2000年代後半ではその時代の状況とことなるように思う。一連の言説の傾向としては、個人=個性といったコンテクスト(文脈)や個人=オリジナリティといったコンテクストなど様々なコンテクストがある。
 かつて浦和真(うわわまこと)先生は私のダンスコロキウムのピエール・ダルド作品の評を指しながら2000年代の個性=50年代、60年代の(実存主義なども背景にある)オリジナリティ、自我といった指摘をしていた。浦和先生は、例えばピチカートファイブのビジュアルを担当していたグルービジョンズによるチャッピーのような現代アートを直接的には知らないのであろうが、90年代の現代美術で個性や自我がどのように語られてきたのかということを直感的につかんでいるように思う。 
 私自身は、もっと広義に、オリジナリティが強い作家が出てきて欲しいという意味で一連の言説を展開していたわけだが、私の言説に対する1つの指摘として私自身が興味深く思ったものの1つだった。