追悼・長谷川六

追悼・長谷川六 
山野博大がコロナ禍の2月に他界した翌月に長谷川六が3月ひっそりと旅立った。
長谷川は高等師範(現・筑波大学)の先生で警察も指導していたという剣道家の家に生まれた。本人も剣道はたしなんだことがあるというが、芸術の道を選ぶ。女子美術大学では彫刻を学び、同級生に児童舞踊の賀来良江がいた。後輩に岡本佳津子がいたが、岡本は学校ではなくバレエを選んだ。学生時代にこの仲間たちと砂川闘争などにも接した。この学生時代の仲間たちとは後年まで個展などを行うこともあった。1957年夏に世界青少年学生友好祭に芙ニ三枝子、石井かほるらと共に参加しモスクワに滞在したこともあり、この時に「半島の舞姫」として知られる崔承喜と接している。やがてある男性のジャズダンサーが”お目当て”で足を運んだ全日本芸術舞踊協会主催第6回新人舞踊公演(1959年5月24日、第一生命ホール)で土方巽の「禁色」と出会い大きな衝撃を受ける。舞踊について書き手が少なかったこともあり、少しづつ書き始めるようになった。そして1967年に業界誌の「モダンダンス」を30代頭に刊行する。当時、池宮信夫や山野博大、うらわまことらによる戦後派発の舞踊メディア「20世紀舞踊」がすでに舞踊界にニューウェーヴを起こしていたが、長谷川のこの雑誌がそれに連なり新世代の渦をつくりだしていく。この業界誌は1976年に「ダンスワーク」と改称する。当時、エドウィン・デンビーの様にこの語を用いる批評家はいた。執筆や編集の傾向は、前衛を扱う業界誌であり、桜井勤や山野博大のように全体を視野にいれて活動するというわけではなかった。現場で写真撮影をすることも少なくなく、土方巽などの写真の重要なものの中には長谷川のものもある。
戦後日本のダンス・アートの立場を高め、世界へ発信できるようにするために尽力をし続けた。また活動した時代が1970年代のように戦後の洋舞界の非常に良い時期だった。結果として、舞踏をはじめとする戦後派の才能の一部が欧米のアートシーンの中枢に食い込むようになってくる。日本で社会的にあまり知られていないが欧米では知られている才能たちが台頭するようになった。その基盤のような役割を結果として担うようになっていた。「ダンスワーク」の紙面には彼らを支えることになる、戦後の身体思想の影響を受けた論考が多く掲載されていた。
長谷川の功績は、編集などで活動を共にすることが多かった堀切敍子によると、それまで男性が多かった舞踊評論の中に女性の書き手の場をしっかりと確立させたということだ。また市川雅の評論集「行為と肉体」(1972)の編集でも知られ、市川とのパートナーシップは戦後のポストモダンダンスや舞踏の登場とともに黄金時代を築くことになる。彼女は自ら踊りを学ぶこともあり、芙ニ三枝子や笠井叡に学び、自作を発表したり作品に出演することもあった。踊るときは長谷川一五(いちご)などユニークな芸名を用いていた。加えて独学で建築士の資格を取得し、自ら設計した家に住んでいた。どの部分か明確ではないが、森下スタジオの図面を引いたのは自分だと本人は語っていた。
やがて長谷川は市川と袂を分かつことになる。市川についていった書き手の多くが彼の方向性に沿うように90年代以降のダンスブームの中で、コンテンポラリーダンス・舞踏やバレエの評論を担うことになるが、長谷川も自らの方向性で活動し、最晩年まで雑誌の刊行やダンスに関する企画を重ねた。ポストモダンダンスや舞踏の黎明期から現場で活動をしていたため、今日からみれば、市川系列の仕事のみならず、その原点の一部に存在する長谷川や仲間たちの仕事も視野に入れて考察することが重要といえる。一連の評論家たちが活動をする場をジャーナリスト・編集者としてしっかりと構築してきた。彼女が身銭を切って海外のアートやダンスの情報を収集し続けたことが、今日の洋舞界にとっても大きな糧となっている。
長谷川はダンスの学校をつくることを夢としていた。そこで実際にPASダンスの学校をつくり、運営したことも大きなことだった。これは個人的な関心というよりは市川との見解の違いでもあった。長谷川は日本のダンスを考えるうえで、教育や学校から変化をするべきだと考えていた。市川の様に1990年代までの日本の公的な舞踊教育の場としての学校でのカリキュラムに飽き足ることなく、根源からカリキュラムを考え実行しようとしていた。同じようにこちらでも身銭をきって運営し笠井叡や、石井かほる、山崎広太などの講師をゲストに迎え、バレエ、モダンダンス、ジャズ、コンテンポラリー、オイリュトミーなど、幅広くクラスを展開した。この学校はこの国の中でも独自な存在だった。しかし舞踊教育の側からは冷たくもされていた。しかしこの私財を投じて実装した試みからは何人もの人材がでてきた。ジャーナリスト・編集者としての活動のみならず、雑草のような強さと行動力で、洋舞界で様々な試みを形にしてきたということができる。冥福を祈る。
後日、次の舞台も行われた。
「山野博大・長谷川六追悼 舞踊と批評の60年」
 山野博大と長谷川六を追悼する公演が行われた。最初に献舞のように二人の批評に登場するアーティストたちが踊った。舞踏もポストモダンダンスも20世紀の区分になり、コンテンポラリーも既成の枠組みでありもう先端ではない。二人が在りし日のかつての大時代をふりかえるような内容だ。
 島地保武・酒井はなによるコンテンポラリーバレエ、ケイ・タケイや江原朋子のポストモダンダンス、戦後派の藤田恭子、馬場ひかり、深谷正子、加藤みや子、そして東京創作舞踊団、舞踏からは上杉満代、ジャンル区分を感じさせないナンセンス舞踊の三浦一壮・川口隆夫・川村美紀子がそれぞれ舞台を彩った。
 山野らは600文字ほどの業界紙の評をまとめていく事で、彼らと同時代を記録し続けた。それは戦後から21世紀の初頭の舞踊の歴史となった。
 イベントを通じて明らかになるのは、「戦後の舞踊評」の枠組みの再考と歴史化である。戦後の舞踊評論の台頭のルーツは慶応義塾にあった慶応義塾バレエ研究会である。このサークルは男が多く先輩に石田種生がいる。村松道弥はこのサークルに関心を持ち浦和真に評論を書くことを薦めた。さらに池宮信夫が加わり、20世紀舞踊の会となる。やがて福田一平らによる早稲田の児童舞踊のサークルにいた市川雅がそこに加わる。市川雅を神格化することなく、「読むことの距離」や「語ることの距離」を通じて、客観的な1プレイヤーとして考えることも重要だ。長谷川と市川の関係が良かった時代はADFの頃にはおかしくなる。きっかけは考え方の違いとも資金がらみともされる。やがて両者が派閥に割れて争うようになる。市川は門下生のみならず、三浦雅士ら業界の外から人材を引き入れる。長谷川もダンスワークを継続し、コップの中の嵐が続いた。それはコンテンポラリーダンスや舞踏における覇権を争う狭い政治でもあった。長谷川は人目をはばかる事なく市川の事を"せこくて汚い奴"と罵倒し、一派との本や雑誌をめぐる経緯や飲み食い・礼節について非難することをはばからなかった。当時よく知られたエピソードとしては、市川はスペインで藤井友子に告白をしてふられ、かないみえこ、妻となったたのひでこといったパートナーの存在もいたこともあった。そんな市川に見ることの距離は本当にあったかは疑問で実録・市川のほうが気になる。これに対して党派的な市川一派は石井達朗や國吉和子を中心に市川の遺言として"長谷川には気をつけろ"と言い続けた。今でも色濃い旧・市川グループの政治色は一連の覇権争いに起因する。そして震災を経て舞踊業界も縮小し今に至る。私は市川一派の党派的な側面からも、長谷川の直裁的な姿勢やメランコリーそして横暴さからも巻き込まれない様にダンスワークに執筆したことあったとはいえ、共に離れた。
 山野は慶応に学んだから本当の事を書かないとされた。長谷川は前衛から転向したような彼の後年の態度には批判的だった。彼は20世紀舞踊の会の時代には写真入り評論集を出していた。のちに業界紙のオン★ステージ新聞の刊行に共同出資者として参画する。彼は江口博についていった為に最後は業界紙系のその業界の長老だった。もしも彼が業界紙の発刊ではなく一般紙を中心に活動を重ねていたら、もし江口の後をついていかなかったらという事も考えさせる。「寝てても批評が書けないと評論家でない」というのが山野の迷言だった。二階堂あき子は舞踊家を代表するごとく「ヤマノハクダイのお尻をペンペンしてやりましょう」と述べた。私は山野に関しては対抗紙の現代舞踊の書き手ということと、いろいろな舞踊関係者とのバランスをとる為に晩年の彼を遠くからみていた。
 戦後、洋楽も映画も発展し大規模のジャンルになったが、ダンスは中規模になったとはいえ震災後は苦境になる。山野も長谷川や市川も共にダンスというジャンルの中に籠り、政治を繰り広げジャンルを腐らせた様なところもある。そこは批判的に捉えても良い。
 ADFを米国留学中に手伝った永利真弓が日本に帰ってきた時、市川は彼女を有名な榎本了壱に紹介した。そのディレクターはダンス・プロデューサーという当時は珍しい肩書きの名刺を差し出した。やがてADFの日本版を企画しようとすると、長谷川は関連各方面に威圧の様な電話をかかけてまわる。やがて市川はDance Sceneryという企画をたてると、長谷川はすでにTokyo Dance Sceneを企画していた。両者の激しい覇権争いは人間らしいほど人間的だった。市川だけを、あるいは市川を先生とみていても、時代はみえてこない。むしろ市川も長谷川も山野も一人のプレイヤー、人間らしい人間として歴史を洞察する事が大事なのだ。
 どのような事が起きいったいどうだったのか、偏ることなく是々非々で、サイエンスとして考察する事が求められる。彼らの歩みを批判的にみながら遺志を継ぎもっと建設的に震災後の2020年代を新しい時代を創っていこう。新しい時代と向かい会う季節にある。
(2022年3月6日、シアターカイ)
 
追記1
90年代に三浦雅士が「ダンス・マガジン」の編集長になったり、市川雅がいろいろな才能をダンス界へ入れてきた経緯で、市川系列のように動いていた批評家・研究者たちからは長谷川は常に攻撃されていた。市川が長谷川のオルガナイズしたり場を立ち上げる力を怖れており、「長谷川は気をつけろ」といっていたぐらいだった。保守的な石井達郎や長谷川より若い党派的な國吉和子は市川に言及しながら常に長谷川を攻撃していた。しかし長谷川は前向きだったのも事実である。1960年代後半以降のダンス批評を考えるうえで、市川だけではなく、長谷川とのバランスの変遷を考えることは意義がある。
 
追記2
「戦災により上の年代は中川鋭之助と池宮信夫ぐらいしかいなかった」(山野)というが、戦後という疾風怒濤の時代を生きた1950年代の若手は貪欲で土方に象徴されるように「自分のものは自分のもの、人のものも自分のもの」であったと指摘する声もある。
60年代の反体制派の山野、若松美黄、長谷川を並べてみて、彼らが成したことについて考察してみると、戦後の新体制と一時代を築いたのは事実と考えられる。戦前の舞踊界の系列と因習に対し時に反旗を翻すこともありながらも新しい時代と方向性を生みだしてきたところがあった。しかしアジテーターとはいえ逆にこの3人はいずれも派閥のようなピラミッドを再び作り出してしまい、最終的には自分たちの利害を守るために必死になっていた。ポストモダンで語られるような新社会像のネットワークやノマドとはまた異なっていた。結果的に自分たちもかつて批判した舞踊界の大家のようにになってしまった”いわゆる案外古い人”たちだった。土方のように芸術界の既存の価値をひっくり返そうとし続けた才能と比べると、洋舞界の新保守として生き、最終的に”洋舞界のみで通用する大家”に陥ってしまったのも事実だ。