さようなら 山野博大

 
山野博大氏がコロナ禍の最中の2021年2月5日に84歳で急逝した。 年代が近い舞踊人には、若松美黄、長谷川六らがいる。
慶應義塾大学出身ということもあり、“住んでいた千葉の市川に山野町という町がある”という風評がまことしやかに語られてきたがそれは全くの偶然のことで、実際には東京の下町に生まれだ。 現在のJR市川駅から日吉・三田にある慶應義塾に通う事になる。 中学時代には学校の役職に折口信夫門下の池田弥三郎がいた。 1学年上には同じ地域出身の浦和真や後に経済学者として知られる母校で出世した高橋潤二郎がいた。 山野の同期生には母校で教えた経営学の井関利明の名もある。 タレントの加山雄三、音楽の平尾昌晃、実業家の峰岸慎一、政治家では橋本龍太郎・元首相が同年齢だが一期下になる。 舞踏との関係でみると、映像作家の飯村隆彦も年代が近く、少し年下に現代詩の岡田隆彦吉増剛造がいる。
中高時代の山野博大のクラスメイトに小牧バレエ団で踊っていた男性ダンサー・酒井達男がいた。 彼のチケットを買ってバレエを見に行ったことがその歩みのはじまりだった。 石井漠の次男の石井鷹士やオペラで活躍する鈴木啓介もこの時代からの仲間だ。 批評を書きたいと思う前にモダンダンスを芙二三枝子に学んだこともあったようだ。 芙二と山野は最後まで師弟関係だった。 当時の若者は早い段階から情報を求めて海外のダンスメディアを読んでいた。 当時は私大はまだマスプロ化する前で慶応義塾大学は凄く偏差値が高い学校ではなかった。
大学に進学すると大学の文化部の慶應義塾バレエ研究会のメンバーになる。 当時、バレエは先端文化であり、学生たちに人気があった。 そこで蘆原英了らの協力によりバレエを学ぶ・上演する部があった。 指導教授は戦後の「白鳥の湖」初演で活躍した松尾明美だ。 在学中より音楽新聞に投稿し、まだ10代末の山野の批評はすでに完成されていた。 入学したころに実験工房によるバレエ実験劇場の「未来のイブ」が上演されている。 山野が批評家を志すきっかけとなったのはノラ・ケイが出演したアントニー・チューダーの「ライラック・ガーデン」だった。 この時の舞踊にしかできない感動を最晩年まで良く語っていた。 そして20歳の時に懸賞論文が掲載になり1957年に長老の牛山充と交替する形で舞踊批評家として活動する開始となる。 村松道弥が選んだこの論考で彼は“舞踊家は演目の上でもっと観客の事を考えて工夫して欲しい”と主張した。 浦和真や八木忠一郎もこの研究会が刊行していた批評誌「イルミナチ」や音楽新聞に寄稿している。 この批評誌は浦和が編集をしていた、戦後派の洋舞評のさきがけと言えるリトルマガジンだ。 山野は在学中に図書館で舞踊批評家・光吉夏弥とも知り合う。 授業にでるよりダンサーの稽古場へ行ったり、公演に潜り込もうとチケットもぎりのおばちゃんと追いかけっこもした事もあった。 彼の卒論は法学部出身らしく舞踊の著作権に関するものだった。 渥見利奈や三輝容子といった戦後最初の新人ダンサーたちはデビューしたての年下の青年批評家・山野と踊りの見方を語り合った日々を回想していた。 この辺りのことはうらわまこと編「私たちの松尾明美」(文園社)やうらわまこと・山野博大監修「復刻版 20世紀舞踊」(20世紀舞踊研究会)に詳しい。
やがて山野は1959年に大学を卒業する。 就職活動では出版社を希望したが、決まったのは発足したばかりの銀行業の政策金融機関・中小企業信用保険公庫(現・日本政策金融公庫)だった。 以後、二束の草鞋を履くことになる。 そしてその頃に舞踏誕生にきかっけになる出来事に当事者として立ち会うことになる。 かの過激な女流アヴァンギャルドにまつわる一節だ。 “物議を醸しだして大きくなってきた”とされる若き批評家の最初のヒットは新卒1年目のことだった。 結果として山野は戦前からありすでに確立したメディアになっていた音楽新聞を離れる。 音楽新聞には40歳を過ぎて批評家になった桜井勤が若手と交替し書き始める。
執筆メディアを失った山野は落ち込んだというが、池宮信夫らと20世紀舞踊の会の設立に立ち会い、早々に「20世紀舞踊」、音楽舞踊新聞とニューウェーブの側から論を張るようになる。 舞踏誕生に関係する記事「芸術批評のモラル」やこの時代の多く試みは勢いがあり良い評論だ。 この頃、山野はギンズバーグの詩と土方巽を賞賛していた。 “毎日ように劇場に通うと観劇に時間がかかり大変だが舞踊を書くことには意義がある“と発言する一方で、「1966年は舞踊で食べようよ」といったことを述べるなど20代の山野は初々しくもはつらつとしていた。 山野のパートナーはこの時代の舞台写真を多く残した山野和子だ。 二人の結婚を祝い20世紀舞踊の会は写真・評論集を刊行する。 和子は社交性が高く二人は舞踊界を支えた。
そして山野はポストモダンからコンテンポラリーまで戦後日本の洋舞界の良い時代を生きた。 以後、戦後~21世紀初頭の舞踊界で活躍した。 「20世紀舞踊の会」の同人・設立メンバーであり、舞踊ペン倶楽部から舞踊批評家協会へと職域団体で事務処理を献身的に行うなど活動を重ねてきた。 オン★ステージ新聞は音楽新聞にいた谷孝子に山野が共同出資者となることでスタートした業界紙だ。 長谷川六は山野のことを信頼できると述べながらも、"日本の業界紙の広告は公演主催者から取られることが多い"ことが山野の評を変化させてしまったと述べる。 山野自身もまた舞踊メディアのスポンサーの問題については村松道弥以来続いてきた問題で、なんとか変化させていくことが大事だと述べていた。 この課題は未来へと託されることになる。 正田千鶴のように山野の評が若き日から変質したことを厳しく指摘する舞踊家もいた。 先端を求める若者から、次第に洋舞界全体を細かく論じるようになり、やがて新世代の台頭の中で今度は立場を守る側となり、と彼も齡を重ねながら、時代とその限界の中で進む事になる。 惑わずやがて天命をしるが如く、時代と呼応しながら感覚はポストモダンへ、やがて論調は新保守になっていく。
山野はおそらく記事掲載数において近現代日本のこのジャンルの批評家の中で群を抜いているのではないか。 二十歳前後から最晩年まで現場でどう作品を見たかといことが記録に残っている。 実質的に60年以上現場で執筆をしてきた生き字引だった。
山野は若き日には数少ない光吉夏弥の弟子だった。 やがて“取り上げるものをもっと絞るべき”だとした光吉の下を去り業界紙を中心に現場で活躍することになる。 写真評論や児童文学の翻訳でも知られた光吉は自ら新聞社へ原稿を売り込んで回った草分けの一人だ。 業界紙とつながって活動を開始したばかりの学校の後輩にあたる青年・山野を自分と同じ様々なジャンルで活動するタイプに育てたかったのかもしれない。 だが、彼は自らの道を選んだ。
やがて江口博の導きで文化庁・芸術祭や様々な委員を歴任することになる。 江口は学者の光吉や蘆原英了とは距離があった。 だが山野は芸術祭の日本的な体質が嫌になり一度、文化庁を批判して離れる。 彼は江口の葬儀についてあんなに寂しい葬儀はなかったと述べる。 しかし再び山野は文化庁の仕事に戻ることになり、ついにコロナ禍の最中の2020年度文化庁芸術祭の委員長になった。 一連の選択が山野の活動と評にも影響を与えることになる。 そして後年になると大学でも教えた。
 彼は批評活動を重ねながら、最後は銀行の支店長までなったことから金融に精通しており、助成金や予算の配分においては同業者の中で類を抜くセンスを持っていたとされる。 客席で出会った政治家や官僚、財界人、VIPと交流する時は銀行業で養ったビジネス感覚が冴えた。 戦後の文化政策の歴史とともに、近年の芸術文化振興法や劇場法の時代まで、その枠組みの成立と関わることもありながら歩んできた。 中小企業信用保険公庫の会報にも足跡を残している。
山野の没後にSNSで流れたコメントには多くの人が「分け隔てなく接してくれた」ということを記している。 劇場客席で知り合う重要な関係者とのコミュニケーションやロビー活動も含め献身的に洋舞界を広げようと生きていた。 洋舞界の事となると利害にとらわれずにまず動くオルガナイザーでもあった生きざまは同時代の舞踊人に通じるところがある。
山野が若き日はまだ山本久三郎や永田龍雄といった帝国劇場の生き証人ともいえるモダンマンの大御所がまだ健在で、何か新人が物議をかましても“まあまあ”ということでいろいろ自由だったという。 やがて舞踊批評は業界紙の広告収入の問題もあり、そのように風通しを良くしたり、庇う者もいなくなり、現代の様に売り込みのすっかり売文のようになってしまった。 今日でも辛口のうらわまことの評は若き日の「20世紀舞踊」の時代と通じるものがあり舞踊界に対する提言がある。 彼らのような評が中間層の中から次第になくなってきた。 山野はそんな時代の中を歩きながら、最後の最後まで小さな舞台に至るまで、洋舞を中心に舞踊のみ様々な公演評を書き記録を残し続けた。 それが光吉や江口を経て確立した彼のスタイルだった。
執筆メディアもこだわらずに業界紙から一般紙、小さな雑誌、果ては様々なウェブサイトにいたるまで、本当にいろいろなところに足跡を残している。 いわゆるカード式だった光吉の方法論を踏襲しながら舞踊界の様々なデータをつくっていく作業も行った。 そのデータは各年鑑・年表に活用されている。 舞踊年鑑の為の公演情報データや舞踊人の連絡先リストをつくり、関係者へ提供・公開することもあった。 定期的な郵便物でデータを提供してくれていた時期があり、私のところにも公演情報データは月に何通も送られてきていた。
洋舞界のイメージがあるが、邦舞のことも熟知しており、舞踊ペン倶楽部時代に松本亀松と交流した話をしてくれた。 戦後の日本舞踊の良い舞台に接し、国立劇場の歌舞伎公演にもよく通っていた。
GHQ統治を経て民主化へと進む戦後日本を生きた1950年代後半の若者らしく、愛用のペンや時計といった身に着けるものの趣味はアメリカンなデザインで何よりビールを愛していた。 アサヒスーパードライザ・プレミアム・モルツや、東京で生まれのハートランドは好きな銘柄だった。 鮮やかな味わいとその意味合いを見抜く目を持っていた。 村松道弥らが舞踊人の会をつくり集っていた時代に末席にいたという山野は、関係者と呑むことも好み、公演を観た後はワインではなくビール派だった。 実業家が高級店でなく庶民的な居酒屋を選んで仕事の会話をすることに通じているのかもしれない。 おかげさまで私もビールに詳しくなってしまった。
何しろ私が村松の下で活躍した前甸明俊と知り合い音楽新聞に書き始めたとき、そこには松尾明美慶応義塾バレエ研究会の卒業生がいた。 石井鷹士や石田種生、浦和らがいる中で対抗紙で現代舞踊を書いていたのが山野だった。 現場で日々一緒になった。
若き日から詩に憧れており20世紀舞踊の会でも詩に関するイベントを行い、舞踊人による俳句の会を主催する横顔もあった。 山野は江東区芭蕉記念館の投稿句に入選したこともある。 数年後、私も投句してみたら入選したこともあった。
批評家宣言をした1957年から2021年まで数えてみても64年間はある。 桜井勤が述べた「舞踊界で修行をする」幸運に恵まれた若者が送ることができた幸せな一生というべきではないだろうか。 生前の姿は「踊る人にきく」(三元社)にもまとめられている。
1950年代と比較してみると洋舞界は成長を遂げたが、評論も様々な制度もまた課題が残る。 我々はこの半世紀以上の時代の文化について調べるときに彼の批評を目にすることがあるだろう。 事実、戦後日本の文化を論じる上で、彼の評が予想しない文脈で時折引用されていることを目にすることがある。 山野は初志貫徹の生き方で日本のポピュラーカルチャーの一角を記録にするという意味で大きなことを成し遂げた。 戦後日本の文化史の一頁を彩るこの才能の評を読み解きながら、我々は戦後日本の劇場をくまなく歩き、踊りの魅力を考え発信し続けた一人の男の姿に出会う筈だ。 冥福を祈る。