神奈川県芸術舞踊協会創立50周年

社団法人 神奈川県芸術舞踊協会
創立50周年・社団法人設立20周年 記念祝賀会

 日本の舞踊家による組織では日本全国を網羅する組織としては現代舞踊協会日本バレエ協会がある。一方、各地域ごとに舞踊家たちがモダン、バレエといったジャンルを越えて組織をつくった地域の舞踊組織がある。その先駆けになったのは神奈川芸術舞踊協会だ。( http://www.dancekanagawa.jp/ )以後、埼玉に埼玉県芸術舞踊協会が生まれ、さらに次々に日本各地に地域の舞踊組織が生まれていくのである。
 この協会が生まれた1957年という年は戦後世代の若者たちが、モダン、バレエとそれぞれ自ら動き出した年でもある。批評家としては1957年に20世紀舞踊の会の代表的批評家の一人となる山野博大がデビューしている。(私は昨年舞踊三田会で山野博大・浦和眞の長年の批評活動を祝う会を行った関係で1956年が50周年かと思っていたのだが実は今日の山野のスピーチによると57年だったようだ。ここに訂正する。)現在の現代舞踊協会の前身の全日本芸術舞踊連盟が組織としてスタートしたのも同年57年だった。(前身の組織を含めると丁度60周年になる。)そして翌年の58年に日本バレエ協会が始まり、バレエの人たちが全日本芸術舞踊連盟を離れ、自分たちの組織を作りだす。戦後10年余り過ぎ世間には活気がみなぎりだしていた時代だ。*1
 元来、神奈川という地域は舞踊と縁が深かった。七里ヶ浜にはエリアナ・パヴロバがスタジオを開き、鎌倉には日本で洋舞の批評のスタイルを確立した永田龍雄、国民新聞から東京新聞にかけて活躍をした江口博が住んでいた。山野をはじめ20世紀舞踊の会の若手たちは鎌倉に行っては永田や江口と盛んに交流をしていたようだ。つまり神奈川は舞踊批評にとっても思い出深い地域といえる。舞踊家の側でも江口隆哉を始めとする第二世代の現代舞踊家たちから永田たちと交流をしていた話をきくこともある。元来の開明的な風土とそんな時代背景が背後にあるのだろう。
 そんな歴史を感じさせるように、例えば神奈川芸術舞踊協会のパンフレットにも第一回の合同公演のパンフに永田龍雄が地域の舞踊家たちに向けて頑張るよう促す文章を寄稿をしている。また当時の客席にはエリアナの妹のナデシタ・パヴロバも時折姿を現していた。この舞踊協会の設立に尽力した作家たちはいずれも戦後の現代舞踊、バレエの立役者たちが名を連ねている。そんな時代から現代まで面々と時と人の流れが連なっていくのである。そして舞踊界のみならず演劇、音楽やオペラなど地域のパフォーミングアーツの諸ジャンルとも密接な関連を持ちながら人の輪は広がってきた。

 戦後世代の舞踊家たちが地域の協会をつくり、30年かけて社団法人に認可をさせるまでに至り、半世紀も活動をしてきたというのは大変な積み重ねである。社会に舞踊を根づかせようという情熱と意識がそこにはあった。舞踊家も舞踊批評家をはじめ舞踊に関係する仕事をする人々もさらに次の50年へと引き継いでいくことが大切なのだ。舞踊界の様々な面々が集い当時の思い出話などで盛り上がった。

(横浜 ホテルニューグランド レインボールーム)

関連ページ 
社団法人 現代舞踊協会 創立60周年(社団法人設立35周年)記念祝賀会
http://d.hatena.ne.jp/yukihikoyoshida/20070315
(前身の組織からみて60周年、全日本芸術舞踊連盟から50周年というのが本日のスピーチによるデータだ。)



会場となったレインボールーム http://www.hotel-newgrand.co.jp/banquet/rainbow.html というのは横浜市の歴史建造物に指定されているようで、ある種、大倉山文化会館にも通じる戦前の建築である。築後80年近いという事なので1920年代の建築だ。昨今の日本にない空間で、帝国ホテル(フランク・ロイト・ライト設計)ももうなくなってしまったしという会話も出るぐらいのものだった。

*1:山野博大の批評活動開始、現代舞踊協会の原型組織の創立が同年であり、その翌年に日本バレエ協会の創立というのは面白い歴史的データである。