追悼 藤井公先生

 藤井公先生が他界をされた。私は現代舞踊の批評家として書き始めた。その頃から非常にお世話になっていた先生である。
 藤井は帝国劇場歌劇部で学びフランスで活躍した小森敏に師事した数少ない現代舞踊家であり、その若き日に小森を失ってしまったことから”師がいなかったからこそ奮起した”と語っていたほど旺盛に活動を重ね、自らのスタイルを確立した。その時代から藤井の活動をみつめてきた若き舞踊批評家が山野博大である。戦後を生きた舞踊家と舞踊批評家の間に生まれた同時代性と緊張感が戦後の舞踊界に一つの大きな足跡を刻みだしていくことになる。山野に限らず20世紀舞踊の会の批評家たちは藤井の作品を多く論じてきた。
 1960年に藤井公・利子は東京創作舞踊団として活動をはじめる。代表作品に「癒えぬ川」、「砂漠のミイラ」、「北斉・今」などがある。門下生たちのためにもそれぞれの独立を祝うように作品を創っていた。今年公演を行った本間祥公も山名たみえもそれぞれ思い入れのある藤井の作品を踊っている。戦後のモダンダンスからポストモダン、そしてコンテンポラリーへと戦後日本を代表する現代舞踊家の一人として歩み続けてきた。
 その下からは加藤みや子、本間祥公、柳下規夫、深谷正子、山名たみえ、舞踏で活動をすることになる故・五井輝などそれぞれシーンを切り開いてきたような名舞踊家、そして舞踊研究者たちを数多く輩出した。素朴で飾らず、ユニークに大地の深層から考える、そんな作品と人間性が魅力にあふれている舞踊家でもあった。北関東ならではの風土を感じさせる身体表現とクセナキスの旋律が重なるとモダンにみえながらバナキュラーにもみえるテイストが立ち上がってくるその作風は今日の現代舞踊の中でもありゆるぎない強靭な個性をもっていた。戦後の経済成長を象徴するような華麗なバレエやダンスに対しても肉体を通じて素朴に生きる民衆の喜怒哀楽を捉えるような作風も主張がありその大きな魅力だった。
 また藤井は後進の育成についても深く考えていた舞踊家だった。私が埼玉全国舞踊コンクールの予選・決戦を見に行くと、いつも会場で言葉を交わしてくださった。コンクールに出てきているダンサーの作品に対していろいろ意見をお話をすることができた。私がコンクールの評を書いたのは埼玉が最初だと思うが、思えば埼玉のコンクールから舞踊コンクールを予選・決戦と丁寧にみていくことの大切さを知ったのだと思う。さらに埼玉芸術舞踊協会の公演に出席すると終演後必ず出演したグループ全員にコメントを出すということも忘れられない思い出だ。これも後進の育成を考えた藤井のアイデアだという。観る側もジュニアからコンクール組、そしてシニアまで幅の広いアーティストと言葉を交わすことになるため、本当に勉強になったことはいうまでもない。
 藤井先生の最後の作品は多分今年の年始に上演された「八月の花」になるのではないかと思う。終戦の日に見たという花を描いた舞台美術の前でダンサーたちが踊る作品は鮮やかだった。戦後60年以上を経て新世紀初頭の希望から再び不安な時代になってきているが、私はあの作品を忘れることはないだろう。
 戦後という時代の中から独自の舞踊を切りひらいた藤井を想うと、今日の若きモダン・コンテンポラリーの踊り手たちからさらなる次代を切りひらく大きな才能が出てくることを祈ってやまないのである。

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Asahi.com 舞踊家の藤井公さん死去
http://www.asahi.com/obituaries/update/1222/TKY200812220056.html?ref=rss

Yomiuri おくやみ 藤井公氏=舞踊家振付家
http://www.yomiuri.co.jp/national/obit/news/20081221-OYT1T00568.htm