2000年代の秋田

 2000年代の秋田は私にとってかなり興味深い体験だった。秋田は温泉が多くあるようであり、東京からも観光客が良く行くようだが、広告宣伝の中にあるようなツーリズムの中のイメージとも実体験は異なっていた。
 今回、秋田を旅したときはタクシーを使うことが多かった。大体どの列車もバス路線も1時間に1-2本という社会のため待ち時間が結構かかるというのもあるのだが、一区画の間が長いのだ。地図上で10分ぐらいだから歩いていこうと思うが、実際には25分ぐらいかかるというのがザラで、寒い気候も手伝ってか、車が社会に普及している。タクシーの運転手は一人一台といっていた。いわばモータリゼーションされた社会だった。また駅前はポストモダン調に再開発をされており、街角ディスプレイではそれこそ倖田來未が登場するようなオリコンチャートのPVが流れていて、ジャズダンスやヒップホップを踊りだしそうなファッションの秋田美人たちが街角を彩っていた。
 秋田とくれば、”原点としての石井漠”ということで石井漠メモリアルホール(http://www.town.mitane.akita.jp/info/main/kanko/bunka/bunka.html)を訪ねた。秋田駅から在来線でちょっといくと有名な干拓地、八郎潟が目の前に広がりだす。車窓から右から左までとにかく畑ばかりで家もなにもないような広大な土地が見える。そのままいくと森岳という駅があるのだが、森岳からタクシーで7-8分ぐらいいったところに石井漠メモリアルホールがある。この地を訪れることはかつてからの願いだったため、とても興味深かった。石井漠というと現代舞踊のイメージもあるがバレエとの接点も様々な文脈である。例えば葬儀で悼辞を読み、同門会の結成を呼びかけたのは法村康之(http://www.homuratomoi.com/company/history/history.html)だ。現在、メモリアルホールには漠の写真や資料が一部屋に展示されているのだが、モダン、バレエ、コンテンポラリーなどジャンルを問わずこの地から日本の洋舞の源流になった人物が出てきたということを知っておくと良いだろう。たまたまだったのだがその場にいた村の老人が漠について彼が知っている話を物語ってくれた。この記念館から少し行ったところで漠が育ったこと、父の石井龍吉が村長だったことなど知っていることを話してくれた。展示物の中には漠の父親であり、この地で市長を務めた父龍吉の資料もあったためリアリティがあった。感慨深いひと時を過ごした後に再び森岳駅に戻る。がらんとしたプラットホームが広がり待合室ではストーブがたかれている。30分強の待ち時間の間、あたり一面を眺めながら列車が来るのを待つ。青空はどこまでも広がり、田畑が大きく広がっている。そして目の前を線路が一筋に延びている。列車にのって秋田に戻る。この地で漠は24まで過ごし、上京し帝劇歌劇部を経て30過ぎで舞踊詩運動を山田耕作と展開することになるのだ。 秋田に着き、東京までの列車を待つために、旧・秋田城跡の公園や駅前の美術館を散策する。公園内には尊敬する歌人である若山牧水の記念碑があった。江戸時代の秋田は秋田蘭画を生みだすなど文化的な地域でもあったようだ。秋田は秋田駅前にいくつか大きな美術館があるのだが秋田市千秋美術館では「木村伊兵衛が視た秋田」といった地域性を重視した展覧会が行われていた。
 場所にもよるだろうが戦後の一時期まであった秋田の生活や風俗も戦前・戦後と比べてみると今ではさらに変化をしてきているようだ。この土地で石井漠や土方、そして大野一雄がそれぞれの人生の一時期をすごしていた。バレエも秋田には根づいていて、服部千恵子と島田廣は秋田に毎週通ってバレエを教えた時期があったという。2000年代の秋田はおそらく私にとって大きな意義を持つだろう―その一方で大きく変化をしてしまったとはいえ、その自然や風土を体験したことも得がたい体験であった。