ブラヴォー!大野一雄の会

ブラヴォー!大野一雄の会

 大野一雄先生を偲ぶ催し物が行われた。梅雨明けという宣言も出た東京は良く晴れ、会場のある横浜のベイエリアは晴れ、すがすがしい七月の午後であった。長年、大野一雄と接してきた関係者から元教え子まで様々な人々が別れを惜しんで会場に集った。会場は横浜の港に面している。目の前の海にはクラゲが多く集まり、それが大野の多くのエピソードの中で「クラゲのダンス」という有名な話を彷彿とさせるといったことも関係者の話題に上がっていた。会場前のテラスには大野先生と土方巽について多くの優れた写真を撮影してきた細江英公氏がたたづんでいた。細江は葬儀委員長らしい。土方の葬儀の時は、澁澤龍彦や合田成男らのエピソードやLP「慈悲心鳥がバサバサと骨の羽を拡げてくる」が香典返しで配られたことなどが今日伝わっている。

 大野先生はクリスチャンであったが礼拝が行われた。司会は天野功牧師、奏楽は鈴木敦子である。前奏のあと、会衆賛美・賛美歌529が一同によって歌われた。その後、説教として「ヨハネ黙示録」より7章9節〜12節が朗読された。

 その後、私がみていると、御世、あらゆる国民、部族、国語のうちから、数え切れないほどの大ぜいの群集、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と子羊との前に立ち、大声で叫んで言った。
「救いは、御座にいますわれらの神と子羊から来る」。
御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物とのまわりに立っていたが、御座にひれ伏し、神を拝して言った、
「アァメン、さんび、栄光、智恵、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン」
ヨハネ黙示録」より7章9節〜12節

 その後、説教「神に捧げられる歓喜の舞踏」が続く。父親は北海道の出身、母親は秋田の出身でクリスチャンであったこと、学生時代に食堂でアルバイトをしていた友人に誘われアルヘンチーナを見に行ったこと、クリスチャンの妻と出会い結婚をしたこと、やがて訪れるダンスとの出会いといった1つ1つの人生の出来事の連なりが語られていく。
 舞踏については、”1980年に大野は「イエスの招き」という作品をパリとナンシーで踊っているのだが、その原点は78年・79年ごろに御殿場で行われた捜心女学院の自然教育という講義で天野と大野先生が語り合ったテーマに由縁があるようだ”ということを中心に天野が接してきた大野の話が語られた。私はクリスチャンではないのだが、天野が語るように「大野先生が天上へ”凱旋”していく」ように感じられた。
 やがて四重唱「主とわれ」聖歌名曲集33ラトビア民謡が川邉由美子、東間千鶴子、小倉克久、内藤昌延によって歌われれ、会場に集まった人々によって祝祷と献花が行われた。
 私も「大野一雄と江口・宮舞踊団」という小論がある一人の舞踊批評家として献花をした。「天道地道」(1995)の頃(この頃には生で見たことがあったので初見はその少し前の「睡蓮」かその前後の舞台なのかもしれない。)、先生が立って踊っている頃の最後の頃にスウェーデンボルグに関して会話をしていること、車椅子になってから見たいくつかの舞台、同じ会場で行われた100歳を祝う催し物での思い出、多くの記憶が胸をよぎる。

 会場には先生の写真やポスターが飾られ、壇には写真や衣装があり、在りし日の先生を偲ばせた。その後、関係者は会場内や外の海辺の小道で集い語り合っていた。当日の内容はInternetを通じて中継されていた。私は夕方になる前に会場を離れた。

(7月17日 Bankart Studio NYK