舞踊とイデオロギー

 大野一雄先生が他界をされたあと、私は幾つかそのことを文章にまとめたのだが、”In Memory of Butoh Legend Kazuo Ohno”と題されたテクストで原爆についてイタリアで大野が語ったエピソードに触れた。これは私自身が当初原稿に入れていたわけではないのだが、編集をしたある人が提案をしてくれた。日本人が舞踏を語るときに戦争について触れるということは日本文化に対するステレオタイプも絡むことから意図的に触れない人も少なくない。しかし最終的に編集プロセスを経て上がってきたテクストを読んでこれでいいように思った。大野先生のお別れの会のときに波止場に無数のクラゲが現れ、それが「クラゲのダンス」を彷彿とさせるという話を関係者としたのだが、その意味についても考えている。

 通常、舞踊批評家というと、「美しい華やかなダンスをみて蘊蓄と定見を語る」という印象がある。しかし私にとってはダンスを見るという行為は、視覚的な表現の背後にあるイデオロギーとも接点がある。”舞踊を見る”ことは<対象と親和する>ことではなく、舞踊とはある意味では他者でもあるのだ。

 視覚的イデオロギーを解析するためにリーフェンシュタールの映像を意味を中立化することができるデータベースにいれるということも行ってみた。( http://d.hatena.ne.jp/yukihikoyoshida/20090217 )これまで私は何度か書いてきたが、舞踊批評家として特殊な立ち位置にある。( http://d.hatena.ne.jp/yukihikoyoshida/20091230 )視覚的な表現の背後にあるイデオロギーを考察するという作業はこの国の舞踊を論じるということにも通じる。今年も夏がやってきたがそんなことを考えるこの頃だ。