壺中天公演

 劇場入口のカフェテリアに現れた麿赤兒を見ながら、彼らが活動を開始した頃と上演芸術の意義が大きく変わってきている現代についていろいろ考えた。先日インタビューをしていても話題になったのだが、定期的に劇場にいくようなカルチャーを今の若者がもっているかというと必ずしもそうとはいえない部分もある。今日は久々の壺中天公演である。


大駱駝艦・壺中天公演 村松卓矢「ソンナ時コソ笑ッテロ」
 舞台中央には大きな矢倉のような装置が組まれており、木箱が置かれている。暗闇の向こうから乱行、狂態の彼らが現れる。今回の舞台の特徴はこの舞台装置を用いたパフォーマンスだ。舞踏手たちがよじ登り江戸時代の浮世絵や俗画の人文字のような形を描いてみたりする。さらにアンバランスなポーズや落下を通じてスリリングな感覚を作りだすことでいつものパロディ感を加速させててもいる。海外ではトリシャ・ブラウンではないが、ロープで実演家の身体と壁や天井を結んで、ダンサーが壁の上を歩いたり、天井の上を歩いたりすることが珍しくない。この作品で彼らが試みたのはスペクタクル性を特色にしている大駱駝艦のスタイルを立体的な異次元空間に拡張しようとしていることだろう。
 ゴトゴトと音を立てて移動する箱の中から男が現れたり、中空から狂女が現れたりと作品が展開していくのだが、今一歩テーマとなっている”危機感あふれるソンナ時”が明確に伝わってこない。後半になってくると数人の舞踏手が彼らの中の一人にペインティングをはじめる。男の肉体の上に絵具を塗り拓ながら描かれていくのは五輪やハーケンクロイツ、経文といった断片的な記号たちだ。次第に金粉ショーのように金粉も男の肉体に塗り重ねられていく。その表現は五輪問題が話題になっている現代をうっすらと想起させるもする。しかし大駱駝艦ならではの丸禿で白塗りという狂態は見るもの・演じるものの意識を異次元に持っていくのだが、その手法に頼りすぎて今一歩外部に主張が外部に伝わらない部分があるようにも思える要素も多い。バレエ音楽を舞踏家たちの背景に流すことでパロディ感をだそうとしている部分もオリジナルのバレエ作品との絡みを1シーンだけでもみせると良いのだが、舞踏とバレエ音楽というだけではもはや異化作用が機能しなくなっていることも感じ取ることも出来た。
 木箱や人体の上にグラフィティのような筆跡を残していくことで、ポップアートと舞踏の歩み寄りを感じさせる表現は興味深い。立体的な装置をつかいスペクタクル的な3次元ではなく空間性を伴った異空間を描き出したという意味では面白い作品でもある。村松卓矢、向雲太朗は力演をみせ意欲溢れる近況を感じさせていた。
(吉祥寺シアター)