高橋源一郎

いくつかの公演をハシゴして夜はSchool of Hard Knocks「Hold the Clock: 根の国のギャングたち」@横浜の象の鼻テラス。なんと高橋源一郎がパフォーマンスをしていた。前になんかで生でトークをきいたことがあったと思うのだが舞台でパフォーマンスをしているのは驚いた。島田雅彦の詩の朗読やダンサーとのパフォーマンスは物凄く面白い。ステージ上の高橋は意外性があって興味深かった。ちなみに島田も高橋も私は小説にはそんなに思い入れはない。若い頃から周囲では村上春樹が非常に読まれていた。大学の時にジル・デゥルーズが自殺をしたことが仲間の間でニュースになっていたが、かつてのサルトルフーコーほどの影響力も持っていなかったと思う。当時、デゥルーズ=ガタリの「アンチ・オディプス」を読んでいてそれに続く「千のプラトー」の邦訳が出たばかりだったかもしれない。それを仲間と読んでいたりしたのだが、それでもニューアカデミズムの世代ほど影響力はなかった。かといってカウンターになるような機軸もなかった。デゥルーズもクリステヴァデリダもいわゆるポスト構造主義といわれる思想家たちがどんどん翻訳されて事細かに書簡まで和文で読めるようになったのは良かった。しかしそれらは風穴の様な存在や自ら考えるということにつながる行為ではなく、泥沼のように細かい事象を押さえていくような逆説的現象をも生みだしていた。翻訳が少なかった時代のほうが、素朴な概念でも独創的に考える若手を送り出せたかもしれない。デゥルーズの死への無関心さはそんなことも考えさせもした。なにより一般的な学生にはどちらかというと思想には関心がない若者が多かったジェネレーションでもあった。ダム・タイプの「S/N」や死んだ古橋悌二もリアルタイムで私は接することが出来たが、演劇を中心に現代思想に関心がある一部の人しか知らなかった。
思うに小説や詩、思想や批評といった言語メディアがかつてほど力を持っていない時代の中を生きてきたようにも思う。同年代でも圧倒的に小説よりは音楽やなにより圧倒的にビジュアルだった。古橋も書いているように、舞踏の重々しさや演劇の熱いセリフというよりは視覚的なものに魅かれることが多かったのも事実だ。

話は変わるが、数年前に死んだ現代詩人・映像作家の友人にささげた詩集をある現代詩人がだした。言葉が重すぎて身近すぎてページをめくれないのだが少しづつ読みすすむこの頃である。