劇場から戻ると・・・

劇場から戻るとどんな状態でも大体最初の原稿を書くというのが私のスタイルだ。そのあと締め切りまでに校正をしてあげていく。この最初の原稿を書くときに、私は自分が見てきた舞台の空気を失いたくないのか、着替えもせずにタイを外すなどした状態だけで書き上げる。やや無粋であるのは承知の上だ。だがこのちょっとした演出が自分にとって大切なものなのだろう。
マキャベリは「君主論」を書き上げるときに官服をまとって原稿を書いたという。これも彼なりの自分に対する演出なのだろう。劇場やその近辺に向かった段階で、身の回りは本能的に仕事場になる。私もその空気を失いたくないだけなのだろう。
ニーチェもE・パウンドもタイプライターで原稿を書いた。今ではハイパーテクスト・ライティングなのであるが、同じようにデータを筆跡ではなく、タイプすることによってまとめあげる。初期の舞踊批評家の自筆稿の中には味わい深いものも少なくない。ついこの間は江口博の自筆稿を見たが、特に蘆原英了や光吉夏弥、そして太田黒元雄といった戦前の書き手の執筆スタイルにはどうしても興味がいく。やはり万年筆を手製の原稿用紙に走らせていたのであろうか。一頃世話になったある地理学者は若き日に幸田露伴に憧れたという人なのだが、露伴を真似て同じ銀座の店で買った原稿用紙を使っていた。西脇順三郎の自筆稿には時折洒落た落書きも登場しヒューモアがある。

評を書くという事は、その時に見た舞台のみならず、社交や作品の周囲から入ってくる様々なデータや情報を検証し、いかに短時間でスマッシュヒットを入れられるかということである。ボードレールの「パリの散歩道」ではないが、大上段に政治や経済、株価の動きからモデルネを論じるのではなく「道を行く女たちスカートの移り変わりにモデルネを見る」といったようにモードとその深層を読み解くことも求められる。常に頭の中に2,3個仕上がっていないテクストを持ちながら、年始から年末まで走りっぱなしになる。
この国の舞踊文化は成熟をしながらも残念ながら市場は映画や音楽ほど大きくはない。しかしこの豊穣な文化を論じ、同時にパイオニア達がそうであったように市場を広げていくことが重要である。故に舞踊を論じることこそが自らの生き死にをかける場所足りえるのだ。
洋舞の舞踊評の創始者は「瀕死の白鳥」などの訳語で知られる永田龍雄だが当時の永田のパイオニアとしての労苦は大きかったはずだ。

余談となるがマキャベリ政治学者のみでなく劇作家という顔も持っている。その中に「喜劇」(マンダゴラ)という著作がある。マキャベリの劇作はイタリア演劇史でも時代を画したと言われている。フィレンツェを訪れたときに、彼の墓がひっそりと教会の中にあった。傍らのオペラ「セビリアの理髪師」で知られるロッシーニの墓は花束で埋まっていた。が比べてみるとその寂しさは一際だった。ミラノを訪れたときに古書店で彼の劇作を見つけた。18世紀ぐらいの版だったと思っている。手ごろな値段だったが買うことはなかった。