大宮

大野一雄誕生100歳記念大野一雄写真展「秘する肉体」

 戦後の大野一雄の写真を集めた写真展。これまで見たことがある写真も多かった。大野が歩いている時代の舞台を私は学生時代に2回ほど見たことがある。一回は大学のキャンパスに来ていたときで、その時に会話をした記憶がある。アメリカの詩人アレン・ギンズバーグの話やジャズの話、彼が著作に書いているフィリピンでの従軍時代の神秘主義者スェーデンボルグと精子に関するイメージの話をした。その後に舞踊批評家になり、車椅子で踊っている大野になった。上星川の稽古場にも数回訪れたことがあり稽古にも実は出たことがある。特に池上直哉の大野に対する視点が、淡々と変化する肉体を記録しているようで面白い。この頃、大野は高齢化社会の現代においてなんらかの形で日本人を表象するものとしてとりあげられることもあり、日本人性の現代を考える上でも興味深い展覧会ということが出来るだろう。
 様々な写真家の目でみた大野が写されていたがディスプレイの仕方が均一であり、大判などもあれば良いように感じたもの事実だ。

*後に加筆校正*

コニカミノルタプラザ ギャラリーB&C)

小西淳也写真展「子供の時間」

大野を見た後に、現代の子どもたちを移した写真へ。大野と同じ日本人の今の子どもたちの風景―勉強机、調合金、コスプレ―が写されている。子どもの身体は「子ども身体」(桜井圭介)とコンテンポラリーダンスを論じる上で論じられることがあるが、桜井の論はどうのという意味合いではなく、現実の子どもの生活の場が、メディアカルチャーや受験などに浸されている事が興味深かった。例えば土方巽が「病める舞姫」などの舞踊論で語るような日本の風景は彼らの中にないのだ。彼らが舞台に上がってくるのは2010年代になることを思いながらギャラリーをあとにした。

コニカミノルタプラザ ギャラリーA)


日本バレエ協会関東支部埼玉ブロック
第19回バレエファンタジー

二見一幸作品 バレエミストレス 大竹千春「Dancing Spirit」


日本バレエ協会関東支部埼玉ブロックは今回振付家にモダン=コンテンポラリーの振付家の二見一幸を迎えて公演を行った。二見一幸作品(バレエミストレス 大竹千春)「Dancing Spirit」では冒頭宙からダンサーたちの衣裳が釣り下がっている。スーツ姿のダンサーたちがあらわれる。二見のカンパニーで踊る踊り手たちと異なり、今回の面々はいずれもバレエ出身の踊り手達だ。バレエの踊り手がコンテンポラリー・ダンスのテクニックとともに踊る。やがてレオタードの女性達が現れると空中からかけられた服をまとう。紺色の踊り手達が舞台を盛り上げていくが、いっせいに床に伏せる。観客が作品が終わったかと思い拍手を始めると、彼らは客席に背を向けながら中腰で上体を上げることで立ち上がる。その背景にはアジアの伝統音楽が流れる。舞台背後から客席に向けて照明が肉体を照らし出す。踊り手たちはテクニックがあるが、アンサンブルの構成に立体感など変化があっても良いだろう。 
 関東北部にはバレエの舞踊作家が多いようだ。現代社会ではバレエは蘆原英了の世界ではないが1つの教養として受容されることもある。なかでも踊り手のラインが美しい島村睦美「Symphonie Nr.1」、時代に対する悲壮感を表現した矢野美登里エコールデゥバレエ「レクイエム」、モーツァルトに合わせて踊る由井カナコバレエスタジオ「デヴェルティメント」がこころに残った。民族舞踊の味わいを出した伊藤京子バレエスタジオ「ハンガリアン」は民族衣装をまとった踊り手たちが中欧のような世界を描く。コンテンポラリーは現代との接点が重要である。現代舞踊の作家に比べるとバレエテクニックの持つ現代性が重要である。山本教子バレエスタジオ 「unchangeable」はそんな中で楽曲をそれぞれ使いながら現代との接点を模索した作品だ。作品の山場を明確にまとめることがポイントだろう芳賀バレエアカデミー「Sunday In The Park」は印象主義絵画の中のフランス人たちのような作品だ。パラソルやボールで戯れる踊り手たちの伸びやかな午後だ。
世界が戦乱であれているがバレエスペクタクルの気品や優雅さは観客に心の安らぎを与えたようだ。地域で活動をしながらその特性を活かした活動成果が出てくると良いのではないか。

(さいたま市民会館おおみや大ホール)

*初めて降り大宮の街の規模に驚いた。ある意味、宇都宮にも通じるかもしれない。この地域の拠点である。古い日本の建築があり、そこに漫画喫茶が入っているといったレトロ昭和と現代の融合を感じた。私は東京や関東の北部のことに余り明るくないのだが、舞踊文化も劇場文化も盛んなようだ。
北関東は身が冷えるほど寒い。冬のさいの国埼玉劇場などそうなのだが、暖炉を炊いたように室内を暖めるような独特のカルチャーがある。風情の良い通りを見ながら晩餐する。

行き頭に京浜東北線王子駅のプラットフォームに立ち軽いフラッシュバックを起こす。
夏の風物詩といえば埼玉全国舞踊コンクールモダンダンス成人の部の決戦である。真夏の暑い中を劇場まで歩いていって、クーラーのきいた劇場に座って5分前後の作品を無数に見る。その時の交通に良く使う場所なのだ。
これまでの夏の思い出を一気に回想した。

*フランスのプログレッシブロックといえばTai Phongの1stアルバムが名盤中の名盤だ。
http://www.taiphong.com/
私はIPODに入れている。
http://www.youtube.com/watch?v=cyl14xk-MTQ
非常に静かなアルバムなのだが、この映像を見る限り、当時の学生たちが群集の様に取り巻いている。群集は群集論というジャンルがあるのだが、(日本人で言うと港千尋が同名の著作を出している)ダンスを論じていると興味深い対象である。マスゲームや映像の中の身体美ともつながってくる。私は学位論文がLeni Riefenstahlで、後にそれを部分的に加筆改定したものをスポーツ・体育の世界の「ユリイカ」といえる媒体、「現代スポーツ評論」(清水諭 編)から出している。またイギリスから今度論文が出版される。
一頃日本に紹介をされていたピエール・ルジャンドルの舞踊論にもこの時代の映像が登場する。伝聞であり正確な情報でなかったらもうしわけないのだが、早稲田大学にある市川雅コレクションは演劇博物館のコレクションと一緒になるようだ。一頃、市川の蔵書をチェックするために、コンピュータ化された目録をチェックしたことがある。その中には彼の著作も含まれていた。

ダンスと全く関係がないのだが、しばらく気になっていた下の書籍を読むことが出来た。

山下奉文 ―昭和の悲劇

山下奉文 ―昭和の悲劇

そして原稿が進まないときは心をやすめるために
ギボン自伝

ギボン自伝

をゆっくりと読む。

*小説家カポーティの映画が話題をまいている。私のような仕事をするものは、ただひたすら客席に身を埋めて日々がすぎていく。友人と連絡がとれなくなっていたら助けをもとめている連絡がきたり、はたまた別の友人の結婚式の関係で動かないといけなかったりとなかなかあわただしい。評を書いているときは静けさが生まれる。疲れたときはMadredeusだ。ヴェンダースの「リスボン物語」で登場する歌姫のグループである。
「旅に出よう、平凡な日常を終わらせるために。そして私の中の終わらないものを終わらせないために」(「夢の果てまでも」ヴィム・ヴェンダース
http://www.youtube.com/watch?v=CvCgquZiPMQ