追悼・桜井勤

追悼・桜井勤
 2013年6月14日に桜井勤先生が亡くなられた。私にも訃報と葬儀への出席を問い合わせる連絡が直接きたが、家族葬ということもあり葬儀は欠席した。また先生は特に偲ぶ会はやらないで良いという要望だったのでお別れの会も出席しなかった。
 桜井先生とは2004年に舞踊批評家協会で出会ったが、何より私が早川俊雄に代わり批評活動を始めた音楽舞踊新聞(音楽新聞社)で佐藤道代の記事を執筆し、それを先生が見つけたことが出会いになった。先生はその記事で私の事を覚え、舞踊批評家協会で出会ったことを喜んで下さっていた。以後、成城学園大江健三郎邸の近くに住む先生と一緒に5年近く、先生が公演で外出されることが大きく減る2009年頃まで最晩年の活動の”最後の付き人”として共に舞台を観る日々を過ごさせていただいた。成城学園前の改札で待ち合わせ一緒に劇場に向かい、帰りも電車で一緒に帰り、成城学園前の改札まで送る―そんな日々が批評活動を始めたばかりの私の活動の中にあった。
 桜井先生は東京の下町にある大きな病院の医者の家に生まれた。戦前に昭和13年の貝谷バレエ団第1回公演(歌舞伎座)など重要な舞台もみている。やがて出征し終戦となる。終戦後もすぐに帰国できずシンガポールで2年近く抑留され帰国する。この抑留中に演劇を体験している。日本に戻ってきた後に2回目の転職で平凡社に入る。同時にこの頃に社会人劇団として演劇に出演し、村山知義と交流をしたこともあった。平凡社では林達夫の下で蘆原英了、光吉夏弥と世界百科事典を編纂したことが大きな転機になる。同時代のこの会社の編集者は戦後文化をになった優れた才能たちが多かった。
 編集者としていろいろなジャンルの舞台をみてきた先生は次第に江口隆哉編「現代舞踊」などに記事を書くようになる。やがて下積みの時代を経て40歳で舞踊批評家として活動をすることを始める。まだ若い私に対して「舞踊界で下積みができる君が羨ましい」とおっしゃるほど舞踊界を愛されていた。以後半世紀に渡る活動で現代舞踊・バレエ・フラメンコ・舞踏・民俗芸能・児童舞踊など様々なジャンルに渡る評論活動・コンクール審査・文部省・文化庁を始めとする各種委員などで活躍をされた。首都圏のみならず日本全国で広く活動された。
1969年に舞踊批評家協会を設立する時は村松道弥先生と中心的な役割を果たした。この事もあってか、何かと利害も絡む批評家・編集者の間を温厚なキャラクターとコーディネーション能力を通じてまとめることも上手かった。その手腕は文部省・文化庁を始めとする各種委員やコンクールの審査員の場でも発揮された。故・高円宮憲仁殿下は若き日からバレエなどに興味を持っていたが、本格的に舞踊に関心を持った時にいろいろ案内をした一人が桜井先生であった。その為、高円宮は舞踊批評家協会のメンバーだった。私と音楽新聞社・創立の村松先生や桜井先生は共に同じメディアやこの協会との縁があるといえる。
 批評の現場において事典や年報の如く多ジャンルに渡る広範なネットワーク・活動や温厚な性格は愛された。仮に舞踊批評家に前衛派・全体派・正統派という分け方があるとすれば、まず全体派であり同時に書き方においては美しい品格を持った書き方を大事とされ前衛派のような誇張表現を好まない冷静な正統派の書き手であった。同時に20世紀舞踊の会のメンバーだった前衛派の市川雅とは「現代舞踊」で論争を行ったこともあり、その事は晩年も語っていた。持ち前の温交さが故に芸術的に鋭さを重視するダンサーたちからは批判をされることもあったが、ダンサーたちに慕われていた。
 先生は百科事典の仕事をされていたこともあり最晩年の最後までデータや正確で記憶は明晰であった。90を過ぎてもこの作品は〜年、この作家の来歴はこうだということを間違えることなく電話口で語っていた。またその見方も偏ることを嫌い、常に事典の如く全ジャンルに向けられていた。また90を過ぎているのに新聞や周囲のネットワークから入ってくる情報を的確に読み解き、現場の各アーティストに対する評価も的確に把握されていた。先生は40から90過ぎまで半世紀以上の間、舞踊批評家として活躍された。ある舞踊批評家は桜井先生にペンネームを頂いた。またある舞踊研究者は桜井先生に連絡をするといい事があると編集者に語ったという。このように舞踊界の人を一人一人つなげ育てていく力は創成期の洋舞界を生きた人々に通底するものだった。その温厚な性格も鋭敏な情報感覚も戦時中を経た日本人ならではのものだったが、最後まで舞踊界の長老として大きな存在であった。最晩年でも多くの舞踊関係者たちが「桜井先生はお元気ですか」とおっしゃることがあった。
 先生は天ぷらが好物であった。国立劇場で観劇をした後、赤坂見附で地下鉄に乗るため、一緒に黒塗りの車に乗り駅へ着くと、駅前で天ぷらを食べることをいつも楽しみにされていた。その足でカフェに寄ると「舞踊藝術」の井上道代さんや藤井修治先生と一緒になることも少なくなかった。大好きだったハゲ天のある銀座では銀座4丁目交差点の喫茶・洋食店ル・ブランなど先生が通いなれた名店に案内して下さり、そこで歌舞伎座昭和13年に貝谷バレエ団の第1回公演を観た話をしてくれたこともあった。行き慣れた大劇場へ電車を乗り継いで行くことがあれば、ある時は出来たての小スペースへ足を運ぶなど首都圏を一緒に良く歩いた。モダン日本の激動の戦前から戦後を生きた、昭和の空気を愛する、まさにあの時代を生きた日本人だった。
 成城・喜多見には近代から柳田國男北原白秋西條八十など多くの文化人が住み新文化・新生活を追及し成城学園では新教育が研究・実践されてきたことで知られる。田園都市や田園思想がモダン生活の一部であった近代の名残がある。私が交流した頃の成城は”3賢人”は小澤征爾大江健三郎山田洋次横尾忠則らも活動していた。桜井先生のご家族には成城学園で学んだ方もおり、成城の住む人の中には桜井先生のことを憶えている人もいた。亡くなって数年後にお宅の近くを歩くことがあった。桜井先生のお宅にはもう人は住んでいなかった。
 最晩年の付き人をさせていただいたがそこから学ぶものは計り知れなかった。批評でも多くの影響を受けた。舞踊界の先人であり批評活動を始めたばかりの私の初期の大きな先生の一人であった。ここに先生の冥福を祈りたい。