とおい旅

 モダン・コンテンポラリーでもバレエや伝統芸能でも同年代のアーティストの作品を見る・向かい合うというのは楽しみでありプレッシャーでもある。自分とほぼ同じ時間を生きてきているアーティストである分、感性が近いというのもあるのだが、それを書いていくというのは大きな意義を持つからでもある。
 少なくとも私自身にとって同年代のアーティストというと、モダン・コンテンポラリーで言えば、それは菊地尚子や矢作聡子、冴子、関口淳子、江積志織といったアーティストなのかもしれない。今日はそんなアーティストの一人である菊地のソロダンス公演に足を運ぶ。
 もう何年も前に705 Circus 06*1を見て、NYCで活躍をしてきた事、デボラ・ジュゥイットがVillage Voiceで好意的な評を書いていること*2を即座に理解した。菊地の近作の中では「Systematic Nonsense-705world」が好きな作品の1つだ。「Cell」やこの作品を見てより広く紹介されるべきだと思うようになった。後に「シンフォトロニカ・フィジクロニクル」*3が受賞作品になるが一連の作品のトーンはいつ接しても興味深い。このソロダンスも充実した作品である。

菊地尚子ソロダンス公演
自分マニア レベル10 「とおい旅」

ムーブ町屋

菊地尚子ソロダンス公演「自分マニアレベル10『とおい旅』」   
吉田悠樹

舞台の真ん中にポールが立っていて背後にキューブが置かれている。まるでコンセプチャルアートのようだ。両サイドに音響装置がある。キューブの上で菊地が横になって動きながら作品がはじまる。ゆっくりと揺れるように立ち上がる。幻想的な風景だ。立体の横に下りるとゆっくりと空間を使いながら動いていく。やがて壁に沿って動いていく。
壁に映像が投射されると自然の風景や音が空間に流れだす。ライトスタンドをつかったアニメーションが次第にはじまる。菊地がスペースの中に置かれている巨大なキューブを押すとステージの空間構成が変わっていく。この移動によって再構成されるステージの変化が面白い。実世界で菊地はスタンドを使って踊っていく。
女がキューブを回転させるとその中に小さな部屋が登場する。部屋の中で本を読む女の姿が現われる。菊地の日常世界である。乙女はドレスを着たり靴を履いたりする。自身スタジオの映像がビデオダンスの中に登場する。すると宙からシックで可愛らしい小さなシャンデリアが降りてくる。映像は森の中を歩く菊地に切り替わる。女は素になるようになりながら自然に肉体から立ち上がってくるフレーズを反復していく。
少しづつ展開していく時空が物語をゆっくりと刻んでいく。一つ一つのフラグメントがこのアーティストが歩いてきた足取りを感じさせる。映像はニューヨークのイメージになる。やがて菊地は梯子を持って歩きだす。床にプロジェクトされた照明空間の間をアーティストはたどるように歩いたりする。寓意的な空間といえる。やがて舞台正面のポールに菊地はたどりつき、ポールに触れる。水面や幼児の声のような音が響いていく。菊地はゆっくりとからだをゆらしだす。素になってからだをゆらす。一見自然に見えるががっしりとした姿勢にはテクニックが裏打ちされている。肉体に感情変化を形象化するような効果がでてくる。コンセプチャルな作品だが視覚表現がアレゴリカルに機能をしだす。背後の空間が開くと照明ライトが客席に向かって強い光を発しはじめる。その前で女はたたずんいる。やがてキューブの部屋に梯子を立てかけると煙突を立てる。煙突から煙が立ち上っていく。
一人のアーティストの足どりがそれが普遍的な物語を生み出していく。美術と一体化した表現がビジュアルなステージが手ごたえのある作品を切り出した。アメリカではLarry Keigwin+Company、Nathan Trice/RITUALSなどで活動をしている。二〇〇〇年代の911以後のニューヨークについてはまだ日本でも明文化されていないが新世紀初頭の文化が舞踊が登場してきているのだろう。冴子や池田素子といった同じ時代のアメリカを経て活動しているダンサーたちの作品に通じる世界がある。現代の中堅作家の中で大きな伸びを見せた才能の一人がこのアーティストだ。これからの飛躍に期待がかかっている。
(八月八日 ソワレ ムーブ町屋