集合知とダンス

 集合知という言葉がある。現代のTwitterやBlogといったソーシャルウェブでも用いられる言葉だが、集団的知性という言葉で認知科学やコンピュータ科学、社会学で論じられることもある。ミツバチや蟻の群れを例えで用いることもアル。オンラインに展開する様々なBlogやTwitterのデータとダンス・コンテンツの関係も気になるところだ。私は2006年にGoogle Earthマッピングされた都市やパフォーマンスのデータを使い、都市開発と身体、身体知を考えるプロジェクトを行っている。当時、まだ集合知という言葉はあまり知られていなかったが、このジャンルでこのような試みはなく1つの先駆的な試みだったといえよう。

2006年6月に下北沢の再開発に関係するカンファレンス Urban TyphoonでGoogle Earth 上にダンス・コンテンツと批評をアップするというのを行ったのですが、その時のデータをネットに再度アップしておきます。

「Sode Mapping −都市計画と上演芸術の狭間に生まれた技法−」

(C)チーム非同期,2006年6月にGoogleEarth上にアップしたパフォーマンス評より

Sode Mappingは広義に主体と客体の間にある潜む<狭間>、例えば近代都市のPerspective、見るものと見られるものがわかれるパフォーマンス、記録者と観察者が別れるアーカイヴ・データベース、といったものの間に表出したものを映像アーカイヴに記録したようなプロジェクトだ。なかなか情報化が進んでこなかった東京のパフォーミングアーツではなかった展開ともいえるだろう。作家達の手によって取り上げられたのは街角の面白いオブジェや盆栽、タバコスペースなどだ。それらはその場で切り取られGPS情報と共にリアルタイムでアーカイヴにアップロードされていく。

今回の会場となった東京の下北沢はそんな狭間が多く潜んでいる地域だ。日本文化はなかなかボトムアップな要素が見られない側面を持っている。しかし下北沢はサブカルチャーのスポットとしてファッションやパフォーミングアーツ(主に演劇)が知られてきた。下北沢を素材に舞台のソデにあたる部分を映像アーカイヴにアップをしてみた。例えばカンファレンス最終日の夜にコンテンポラリー・ダンスの喜多尾浩代が路上でパフォーマンスをする。ビニール袋の中から踊り手が出てくる作品は得意とする「添い寝アルバイターの眠り」である。その姿は作家がテーマとしている添い寝アルバイターダンボールハウスの中での生活を余儀なくされている現代東京の下流社会の身体とシンクロする。戦後の路上でのパフォーマンスの持っていた暴力性や開放性がオタクや「萌え」といった時代を反映するように若干内的なベクトルを伴って表出をしているように見える。
 喜多尾のパフォーマンスは舞台の上でのパフォーマンスだ。街のSodeのパフォーマンスは政治的でありながらも甲殻機動隊の中で身体が透明に透けて見える武装である光化学迷彩のように透明に見える。

 現代社会ではパフォーマンス・スタディーズは何でもありになり、携帯電話で着信をすることもパフォーマンス性と扱われるほど、その概念と枠組みが広がりすぎている。かつてアウトノミア運動などともに注目された自由ラジオはストリーミングとの接点で情報社会論との接点が密接だ。その一方で対象的に演劇やダンスにおいてはリアルな肉体の持つ政治性に固執するため、新しいメディアの政治性やアクティヴィズムとの接点が模索されることはいまだに少ない。Sode Mapping Systemを開発した渡邊英徳はソフトウェアの持つオープンソース性やネットワークのガバナンス(運営)に沿った形で新しいメディアを通じた活動をアクティブに展開をしている。そろそろ肉体にこだわりを持つパフォーマー、ダンサーも彼らの考えてきた世界に身をさらしながら新しい肉体とメディアの文法を模索する時期のように思える。


透明な窓を使ってパフォーマンスを!
ユウキアヤ率いるArt Walkerの若者達のごく自然なパフォーマンスが印象的だった。彼らはごく自然な東京の若者たちだ。一方バレエダンサーの児玉麗奈はごく自然にグランバットマンやジュッテを日常的な風景の中に織り込んで見せた。このパフォーマンスの原点となるアイデアはNestの石山雄三の「窓を見ながら下手なヒップホップを練習するのはどうか」というアイデアだ。都市生活者の石山らしい発想といえるだろう。若者達の間に流行するヒップホップやジャズダンスのようなショーダンスやフラメンコの流行もその背景にあるだろう。

肉体を通じて路地を測地せよ!:
Sodeとしての路地を人体を用いて測量した。背景にはフランスの哲学者ジル・デゥルーズの「測地化」があり、そのパロディともいえる内容だ。脇川海里と石山雄三が中心となり活躍をした。狭い路地に1人1人が入っていく。その奥にはなんと民家の入り口もあった。人の手の幅の数でどれぐらいの広さかということを測量する。ずっと一列に長いラインができた。今度は人の身長でということで一同で吉田悠樹彦を利用するために抱え上げたが、近隣店舗からクレームが出そうになりストップした。

歩行者たちのSode:
下北沢の駅と高架橋が交差することで生まれる視界でのパフォーマンス。陸橋の上ではユウキアヤ率いるArt Walkerの若者たちが集まっている。プラットフォームの側には脇川海里、児玉麗奈、渡邊英徳、吉田悠樹彦がいった。電車の乗り降りを見計らいながらプラットフォームで騒いだり、手足を大きく動かしたりと大きな仕草を見せる。911以後のテロ警戒や北朝鮮問題などでセンシティブな世相のためかガードマンと駅員が困った表情を見せた。

UrbanTyphoonの会場の前で:
会場のビルもSodeの候補としてよく上がった地点だった。皆でパフォーマンスを終えて最後に会場前で何かやろうと集まっていったところ、突発的にバレエの稽古がおきた。ドイツの思想家・映画研究者のクラカウアーは都市や文明の中の幾何学的な身体イメージの向こうに近代社会における群集を見出した。このパフォーマンスがパターン化された動きを思い起こさせるのか多くの人々はマスゲームに近いものを感じたようだ。バレエの動きは一見マスゲームのようにみえるが実際には個人の自主的な動きである。パフォーマーらが稽古の場という自分のトレーニングの場、原風景の1つに回帰したような風景だった。