石井みどり先生

 石井みどり先生が他界された。
http://www.asahi.com/culture/stage/theater/TKY200803120181.html
 先日の新人舞踊公演で門下の木許惠介氏のスピーチでも触れられていたが春を目の前にしたこの国の舞踊界にとっては悲しいニュースである。みどり先生は最後まで文明の中で生きること、そしてなにより創作活動の大切さを語っていた。昨年、先生とお話したときにもそんな話題が強く印象に残っていた。そして今年の頭に現代舞踊の大作家たちが続けて力強い作品を上演する公演(http://d.hatena.ne.jp/yukihikoyoshida/20080111)が行われたときも、戦時下を歩いてきた作家たちが一斉にこの新世紀最初の十年の後半になり生きることの希望を語りだしている姿とそのアグレッシブな姿勢が何より印象深く思えたものだった。
 私はみどり先生の舞台を見ることができ、また若い世代の書き手の中では幸運にもその姿を活字にすることができた書き手である。その中には1920年代から30年代にかけての石井みどり作品が上演されたときも含まれている。この時代の石井みどり作品は石井漠舞踊団を経て独立をした時期のものであり、当時すでにベテランだった石井漠・小浪や高田雅夫・せい子、そして当時の新人作家の江口隆哉・宮操子らの作品たちと通底する空気があった。20年代の舞踊界とは日本舞踊家の間から舞踊家組織が生まれてこようとする流れが生まれ、当時まだ少なかった洋舞の踊り手たちもそんな時代の流れへと加わっていった時代である。そんな時代に銀座のキャフェテリアで新舞踊運動を代表する舞踊家たちや旧帝劇の関係者たちと会った話などを先生は私にされたことがあった。みどり先生のパートナーは洋楽史の中に名を残すバイオリニストの折田泉であった。二人は各地を巡業したのだがそんな時代の逸話も聞くことがあった。いずれも懐かしい思い出である。
 現代舞踊は昨年、三輝容子先生(http://d.hatena.ne.jp/yukihikoyoshida/20070718)を失った。その昔は劇場にいくとみどり先生や三輝先生が客席にいらしたことがあった。今でも私は劇場に三輝先生がいらっしゃるように思えるときがある。ついこの間までみどり先生が舞台を見にいらしていたことを思い返すととても悲しく思う。まだ気持ちが整理できないがもう少ししたら私が批評活動を開始したことに出会えた戦後から新世紀への舞踊界のことを思い返すことになるだろう。