坪内逍遥→花柳寿南海→日比谷公園

 早稲田大学演劇博物館にて展覧会「演劇人 坪内逍遥」を見る。見るといっても別の用事で近くに来たこともありそれほど細かに見ることはできなかったのだが、さすがにお膝元ともいうべき充実した内容だった。坪内逍遥というと演劇・舞踊研究では重要人物だが、世間一般では文芸の方で知られている。そのスケールの大きい仕事を実際に資料で読み解くことが出来る機会である。おそらく会期中に再び訪問することと思われるので詳しくはその時に。


花柳寿南海舞踊の会
 花柳寿南海現代日本でも存在感のある優れた踊り手だ。日本舞踊全体でも花柳でも長老中の長老である。その活動の初期から創作で注目を浴びてきた作家だ。河東節290年を記念して初めての曲として大切にされている「松の内」を自身の振付で踊った。新年の茶屋や女の心情を作家は踊り描いていく。小柄な踊り手が細やかな心情変化まで丁寧に描く世界が見事だ。ごくごく普通の日常風景のようにも見えるがうっすら垣間みるような艶やかさも光る作品だ。
 長唄創作「風」は白一色の情景から始まる。白い布が左右から流れるように張られた舞台美術の前で作家がたたずんでいる。やがて背景に笹公、秀衛も登場し、扇子で風の流れを表現する。秀衛がゆっくりと回転をする情景は、現代舞踊の踊り手が”花鳥風月”を描くような作品でみせるようなムーブメントで動きと動きのつなぎの部分を省いてスローモーションで踊っているようにもみえるように見え興味深い。日本人の身体が描く情景という意味では日本舞踊と現代舞踊の間に通じる地平もあるのだろう。長唄は最初は西欧音楽を意識したように広い空間に響く渡るように唄っているのだが、情景が和的になっていくと長唄らしく唄いだす。翫一が布をはためかせ風になって風紋を描き出したり、凧が舞台の上に現れたりする。やがてしっとりとした砂丘の夜になる。日本舞踊の創作ではあまり登場しないナレーションが踊る寿南海の姿を演出するシーンも。寿南海は「土」、「火」、「水」といった自然の要素をこれまで描いてきた。作・演出の駒井義之はそんな作家の世界を上手く捉えている。長唄のみならず、美術(有賀二郎)と照明(北寄崎嵩)が和と洋のトーンを的確に描き出したことも見逃せない。作家は戦後世代の作家だが、この洋の背後に昭和のトーンが潜んでいたことが和と洋の相互からモダニティを捉えているようでこの作品に深みを与えていた。
 日本舞踊では、和や洋のピントがなかなか合わず、過剰に例えば「実際の江戸よりも江戸的な」といった風に遥かなる失われた過去を日本的な世界として描き出す創作作品も少なくないが、この作家の作中のごく自然な感覚の立ち上がり方はいつみても興味深い。

国立劇場小劇場)


 たまたまなのだが夜は知人と夜の日比谷公園を散歩することになる。歩いていくと松木http://www.matsumotoro.co.jp/ が闇の中から忽然と姿を現してくる。
 車窓から眺めるとお堀端に輝くネオンサインと高層ビルが見える。東京はやはり極東の都市である。客観化しながらその深みをイルミネーションのフロントガラスへの反射と共に感じとる。東京ならではDEEPな夜だ。
  
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 このところネットワークを使った作業が多かったことからSAC 2nd GIGS http://www.ntv.co.jp/kokaku-s/ をフラッシュバックすることも少なくなかった。私と同じようにフルタイムでネットワークのオペレーションをしているある女性ハッカーはこのサントラ盤が好きだという。私も作業明けになんとなくかけていることがすくなくない。そんなネットワークカルチャーと舞踊が近似をする瞬間がありブリコラージュともプラトーともいえないかけ離れた文脈のRemixに唖然とさせられることがある。例えば、古橋悌二と山中透によるサントラ盤はダンスでも何度もつかわれていて消尽されているような部分がある。本人たちの意図した政治性とはかけ離れたところでつかわれている。内田香の「Rose Rose」でつかわれている音の出典は押井守の映画サントラからだ。内田の審美的な意識が偶然にもサイバーカルチャーとも通じる面白い効果を引き起こしているのだ。