秋葉原

舞踊批評家として活動をしていると取材でヒアリングのための録音機材をまわすことが少なくない。
先日、ヒアリング用の録音機材が故障したため、空き時間をぬうように秋葉原で買い物をする。その後、ガード下でチップやセンサーを売っている店に立ち寄ったりした。あとはジャンクショップ。何のものか解からない得体の知れない新品・中古のパーツが並んでいる。
 結構、50代の人がチップを買ったりしているので驚いた。ある意味、電子機器はハードもソフトも執筆環境にあるもので、ダンスライターにとっても重要なものである。

 舞台演出でもメディアアート系の作家が登場してきているが、メディアアート系の人に言わせると、秋葉原というのは過激な街ということになる。
ウィリアム・ギブソンの「ニューロマンサー」や北野武が出てくる「JM」をふと思い出したりする。先日、あるJapan Studiesの論文を読んでいたらギブソンの「Idoru」が分析されていて、オリエンタリズムとテクノの美学というある意味ステレオタイプの分析だったのだが面白い。
 「JM」の最後には暗号を解読するための薬品付のイルカ(=「博士」)が登場するわけだが、サイバネティックスと生体装置という考え方は興味深い。「開かれた」モデル化の難しいコミュニケーションのモデルを作るためにJ・C・リリーもG・ベイトソンも格闘したのである。武邑光裕笠井叡荒俣宏と同じでシュタイナー研究の高橋巌の下で学んだ一人だ。武邑は若いときはW・バロウズの訳者だったわけだが、後にクラブイベントのオルガナイズをするようになりVRシステムなどをデモするようになる。そのイベントからテクノカルチャーの論客が数人出てきた。そんなテクノカルチャーの系譜を少し思い返したりした午後だった。


現代舞踊協会 5月の祭典

媒体にてレビュー

(シアター1010)