かもねぎショット

久々にダンスではなく演劇を見る。今回は池田素子さんが出ていないためかオーディエンスは演劇系の人が多かった。舞台も演劇らしい演劇だ。マイムとダンスの越境を狙った水と油やダンスと接点がある演劇、オペラの舞台を時折見ていたが、久々に本当に演劇らしい演劇を見た。
ダンスと演劇の接点というと、どうしても解体社のように演劇では脱領域的な要素としての<肉体>に焦点をおいたものや、つかこうへいと共に活動をする古賀豊の作品のように言葉あそびのパロディを織り込んだ表現が多い。演劇の側からみると、「演劇の最先端」というよりは若干レトロになった表現も少なくはない。いかに視覚的表現に慣れていたのかということも痛感した。ダンスの人がマイムや動きで描写する辺りをセリフで埋めていくということに久々に接して興味深かった。

かもねぎショット公演「子供と会議」

 舞台には箱が置かれている。やがて女の子たちが舞台に現れ、話はじめる。父親に早く他界をされたさびしがりやの主人公と彼女たちの会話がはじまる。子どもたちが見ていない間に、箱の中の人形たちが会話を始める。人形たちはいずれも西欧近代の貴婦人のように着飾っている。憧れの男爵の話、パーティーの話などで彼女たちは盛り上がる。主人公が舞台に現れ、人形たちと会話を始める。ところどころに父親に会うことができない少女の孤独が描かれながら、人形たちと少女の物語が展開する。例えば、ある女の子がリボンを池に落としてしまったとすれば、彼女たちの前で童話「金の斧、銀の斧」のパロディを人形たちが繰り広げるといった風に。
 箱の中の実際の人形と舞台中央に設置をされた箱の中の人形(=俳優たち)が連動して、ファンタスティックな空間が舞台に実現していた。身体表現が少ないのだが、さらに幻想的な空間を前に出して、メルヘン調にしてみるのも良いかもしれない。コンセプトにある大人の会話と子どもたちの会話の関係やずれが作品に現れていなかったのが気になるところだが、人形たちと子どもたちの会話は少女のやるせなさを描写していたように思う。それほど昔から見てきたわけではないのだが、ダンスとの接点で見ていたこの劇団の演劇的な作品を見たような気がする。

(下北沢ザ・スズナリ)

実は演劇もオペラもいつも見ないが好きなジャンルだ。
以前、メイエルホリドの作品が横浜で上演されたときこの本をよく読んだものだ。

メイエルホリドベストセレクション

メイエルホリドベストセレクション

オペラもダンサーの知人が客演をしてチケットを売ってくれるときとかに見る。
結構、意外なダンサーが本番直前のアクシデントで代役とかで演劇やオペラに出ていたり、振付の仕事で大きく名前が出ていなくても出ている。
実演家同士は音楽もオペラも演劇もダンスもどこかでつながりあっていてお互いにネットワークがあったりするのだ。そこに衣裳や舞台美術といった面で様々なジャンルのアートが入ってくる。本当に上演芸術は学際的で幅が広く奥深いと思う。