die pratze ダンスが見たい! 新人シリーズ Aグループ

今年は昨年夏からスケジュール的に忙しくしていることもあり、結果として審査からはずれました。

die pratze ダンスが見たい! 新人シリーズ Aグループ

ハクとオグ「水際の再会」はアイデア中心の一発勝負的な作品。冒頭からすかすことをねらったのかハクが客に話しかける。しかし内輪受けのようで笑いが今一歩機能していない。かとおもえば、神楽坂die pratzeの黒い柱を切ろうとする。これでホンモノの柱を切って見せたらホントに凄かった。暗闇の中で男2人が絡み合い終演。客の前で白塗りのメイクを塗るシーンだけで十分に作品に使えるので構成を中心に大きく練り直すことが重要だ。
三木美智代「溺れる記憶」は女性のソロ。ノイエタンツのヴァレスカ・ゲルトは女性の主張を作品にメッセージとして込めた作家だが、三木の作品はイデオロギーのベクトルが外面ではなく内面に向けられている印象がどうしてもある。シーンとして作品の主題として持たせられそうなシーンがいくつもあるのだが、それらを十分に構成してみせることが重要だ。ジェンダーポリティクスまではいかないが濃密に女性性を前に打ち出してもいけそうな作家であり、故に作品の部分部分が整理されていないことが残念だったともいえる。舞台経験を重ねて大きく羽ばたいて欲しい。
BLANKS!!「微睡、霧、seasON off」は良しも悪しきも90年代的なコンテンポラリーダンスに影響を受けた作家といえるだろう。日常性やモダンダンスを脱構築するといったポストモダンダンスの戦略が、もはや彼らの意図とは全く別の次元で動き出しているといえるような作品である。彼らの作品に影響を受けながら、恋愛や日常や他者といったテーマを描き出そうとしている。ぶっきらぼうに男女が舞台に立っていたり、一昔前に無為や所作といわれていたような表現技法を通じて、コンセプチャルな作品を描き出そうとしていたりする部分にそういった要素を痛烈に感じる。ポストモダンダンスからの影響を感じさせながら、彼らとは違う何かが出てくればいいとはいえるのだが、その一方で彼らの感性が持っているぶっきらぼうさは現代のファインアートよりの20代、30代の作家たち、例えば菊地尚子の近作や内田香のRoussewaltzの作品にも通じるものがあるため、あながち否定できないのである。
 BLANKS!!の作品にはハクとオグや三木にも通じるが、ナイーブでおだかな主体性と自己主張といもいうべき、60年代や90年代とは異なる、他者を気にしすぎているセンシティビティとフラジャイルさを感じるのは事実だ。80年代的に田中康夫の「なんとなくクリスタル」の世代だと<傷つきやすい>とかいう方向性になってしまうかもしれないが、もっと他者の存在を拒絶した、他者を拒絶しながら、でも自身の世界を主張しているような感覚を感じるのだ。MIXIのようなSNSやWebでアクセス先やコミニュティを共有しながら話があう人たちとオフ会などで親密に話しながらも、絶対にあわない人とはコミニュケーションのプロトコルを開かないような感覚を感じてしまうのだ。この感覚は平山素子や二見一幸の作品にはない。なぜ内田の近作にあるように感じるかということも考察してみたいところだ。

(神楽座die ptaze)