Tulip

『Tulip(チューリップ)』
タイトル: ダンスとヴァイオリンデュオによる物語

http://www.doing.tv/content/detail.aspx?ContentsID=989

最近はモダン=コンテンポラリーの踊り手もこんなことをするようだ。池上直子はダンスコロキウムの一番最初の白井剛の作品に出演をしていた踊り手である。ドレスを着たコンクール系ソロがかっこいいのだが、こんな作品もやっている。相手役の邵智羽は今年の1月の都フェスの「火の鳥」でヒロインだった皆川まゆむの相手役だった。確かあの作品でクラシックから初めてモダンに出たという逸話を後で別のキャストからきいた覚えがある。

まあこの6月にYoutubeを見ていたら、2月に取材をした舞台の映像が出てきてびっくりして出演者に肖像権について問い合わせたこともあった。もうそんな時代である。

是非チェックしてみてほしい。


この頃

Blogをつけるのにさらに慣れてきた。学位論文と口頭諮問の関係で舞台数を制限をかけないといけない状態なのだが自由に舞台を見れるのが一番いい。



ヴィーグル

私はイタリア人がスクーターに乗っている映像を見るのが好きだ。都市型のスクーターを一台持っていたいと思うこの頃である。バイクが似合うダンサーはやっぱりかっこいい。実名をかけないのだが、噂にきいていてバイクに乗っている姿を絶対見てみたいという踊り手もいる。かたやストイックに丁寧に几帳面に暮らしているタイプの踊り手もいるのだが、その一方で、酒は飲むし、煙草は吸うし、バイクに乗るしというタイプもいる。シルヴィ・ギエムが車を飛ばしている映像ではないが、あんなにバリバリに踊れるのに、事故とか大丈夫なのかなと心配になることもある。箱田あかねはハーレーダビッドソンに乗って南米の南端まで行った経歴があるという。負の美学をスピードやマシンとの連動感にぶつけているのだろう。エレクトロニクスに限らず機械は面白い対象である。

バイクの場合、座席はコックピットとは違うのだが、乗り物のコックピットに私は憧れることもある。閉鎖された空間の中に神経系ともいうべき機材が張り付いているのである。ポール・ヴィリオの「知覚の兵站学」の世界だ。閉鎖空間ではないのだが、落ち着いたら是非アイソレーション・タンクを体験してみたい。前に実体験しようとしたのだが機会を逸してしまった。ジョン・C・リリーと私は結局出会うことが出来なかったが、私の師の1人はリリーの元でバイオコンピュータとイルカの実験に携わっていた経歴がある。リリーと私の共通の見識があるとすれば、オカルトの否定であり、サイケデリックの否定である。私も電子文化をまぎれもなく享受している存在だが、私がティモシー・リアリーを大きく扱わないのにはこのような背景がある。言語学だとオースティンやサール、そして哲学のパトナムに通じるかもしれないが、精神を通じたリアリティの形成を指示したいというのが私の立場だ。イェイツの「どうしてダンサーとダンスを区別できようか」という有名なアフォリズムは支持したいのだが、イェイツの薔薇十字を巡る神秘主義には共感できない。むしろ、アイソレーションタンクを通じてファインマンも支持をしたという「精神の状況には限界がない」という体験をしてみたい。このあたりは若干きわどいあたりで人間社会では大衆動員や宗教などにも利用される要素がある。ロバート・J・リフトンによる心理学を用いたカルト宗教の分析はこの地平を鋭く分析している。リフトンの日本論は90年代以後の日本のサブカルチャーと若者の精神風景を見事に分析した優れた研究成果だ。この下りについては大駱駝艦の「激しい季節」で少しだけ触れたのでそちらを参照して欲しい。



そして身体は海を求めて・・・

そして身体が陽の光と海風を求めていることを知る。海辺の陽の光には舞台照明にない底抜けの広さがある。秋口とはいえ海辺でカンパリを飲みたい。

いちじくのたわわな果実をかじりながら
砂浜に寝転がる
レモン色の午後
青い空に時計が横たわる
祝福された休日
陽の光に照らされた
パラソルの下