再び矢作聡子@Die Pratze

そんなわけで、「舞踊を見る」ことについて書いたわけだが、舞踊を見ることを、表象というレイヤーで見て、スペクタクルとか表現論で見るというのも方法なのだけど、もっと下位のレイヤー、知覚・認知とか脳科学という面で見ることに最近は関心がある。
勿論、そうなった場合、良くある認知系の原稿のように実験データはエレガントなのだけども、表現として面白くないという印象の論文も多くなるのも事実だ。
先月、Die Pratzeで上演された矢作聡子のコラボレーション作品はそういう意味では作家の側から難しい問題に切り込んでいたと思う。理解をするのに知識が必要だが面白い内容だった。


話は変わるが、砂漠と海の両方に縁が出てきているこの頃である。全部は話せないのだが砂漠関係のある問題で思い悩むこの頃である。その一方で海の近くで仕事がしたいのである。海と砂漠、やはりカルフォルニアが私には向いているのだろうか。学会発表でロスに行った時は心地よかった。


原稿を書くときの快楽と比べてみるとコーディングの快楽は純集中というぐらい心地よいことが個人的にわかった。もともと、電子メディアそのものが人間の神経を拡張しているような要素があるから、熱中しやすいのだが。私はピンボール世代ではなく、アーケードゲーム世代である。アーケードゲームも身体的なメディアだ。丁度、中学高校時代に体感ゲームなんていうものが出始めていて、ヴァーチャルリアリティ(VR)のシミュレータみたいなものだった。後に、NASAVRを利用した協働ワークステーションを開発した事で知られるスコット・フィッシャーに出会ったとき、フィッシャーはフィギュアとかもVRの一種(Artificial Reality)だと定義していた。子供ころに遊んだ玩具、たとえば人形やテレビのキャラクターとかも、広義にメディア環境と捉えれば、1つの人工現実感である。ガンダムのプラモデルとかはその代表的な例だろう。そしてその延長に現在のアーケードゲームやネットゲームがくる。(例えばガンダムの3Dゲームは一世を風靡したはずだ。)
故に、私にとっては舞踊評を書くという行為は単に文字メディアとして原稿を書くという感覚ではなく、3Dのマルチメディアをカットアップしたり、リミックスしたりしている感覚があるのだ。意識や無意識、非文字メディアのデータをカットアップしている感覚がある。(勿論バロウズに忠実である必要はない。)
現在ではまだ個人個人が実際に作品をみたという記憶、経験をウェットウェア(ルディ・ラッカー:実はヘーゲルの子孫の数学者でありSF小説家)である人体で運んでいる感覚だろう。そのデータそのものが価値がある。しかし、次第にメディアが発達をしだすと、記憶を外部記憶に記録するということも起きてくるはずだ。
そろそろダンスを見るという事は原稿用紙と万年筆からさらに変わってきた印象があるのだ。