三越劇場、Roussewaltz

三越劇場九月公演 人間国宝 新内仲三郎 公演

 第一部の「明烏」は三味線の新内仲三郎を軸に浄瑠璃富士松加奈子、新内剛士)、立方(藤三智栄、蘭このみ)らで上演された。日本舞踊の藤の舞いと比べてみると、スペイン舞踊の蘭の所作ともいうべき動きが対照的だ。蘭はこの演目をフラメンコの創作として何度も踊っているが今回は和の世界に入りきっている。芸能の持つ大衆性がこの二つの異なったジャンルを結び付けているように感じる。蘭の動きの方が身近に感じるから戦前は邦舞がメジャーだったが、伝統芸能の言語や身体言語がいかに現代社会と距離をおいて存在しているかということを感じた。その一方で我々の日常の背後にある表象の原理についても考えさせられる内容だった。例えば第二部の「モーツアルト父親との別れ 生誕250年記念」という演目は三味線の弾き語り(新内仲三郎、剛士)とクラシックのアンサンブルルシファーによる創作だ。三味線の新内が生まれたころが250年前でモーツアルトの生誕ということで作られた作品なのであるが、西欧音楽の論理からしてみると、精緻なロジックの積み重ねという創作よりは異なったジャンル同志のフュージョン(融合)ともうべき内容である。邦楽の側からしてみれば面白い試みということになるのだろう。前衛性を狙った作品ではないが、現代音楽のような尖った部分も欲しかったのも事実だ。モーツアルトの楽曲とエピソードが流れると、西欧近代からの影響に基づく近代的なテイストが喚起され、浄瑠璃になると和の心情という形で心に響いてくるというある意味、コンテクストが整理をされていて欲しい内容でもあった。

三越劇場



三越劇場は帝劇から大正、昭和へという系譜の中で人々に愛されてきた劇場である。随分前にある研究に関する調査の関係で何も上演していないときに内部を見せてもらった。昨日のイイノホールではないが、実際にその場に足を運ぶことは物書きにとってはとても大切なことだからである。よくあちこちにもの好きといわれても足を運ぶことが多い。今回は実際に内部で作品を上演されているのを体験できた。明治から昭和初期にかけての芸能史の断片をイメージできた。現在ではこの劇場で若者は現代ダンスの公演を見ることは少ないだろう。しかし、戦前から戦後にかけて連なる人々の流れや記憶を考えていく上で、1つのメルクマールというべき空間である。
 日本橋三越という空間自体がある種のレトロモダンというかこの21世紀初頭からしてみると異次元であるというのもある。建物内部にある巨大な仏像はいつみてもこの建物が近代に出来たものであるということを感じさせる。気になって屋上に足を運んでみると21世紀の都市空間である外界に放り出される。スプロール化都心部から人々がいなくなり、グローバリゼーションで文化が多様になってもこの空間は存在する。銀座、日本橋といった空間そのものが、六本木や表参道といった場よりゆったりとした時間の流れの中にあるといえるだろう。


 
Roussewaltz「Presents」

媒体にてレビュー

(目黒パーシモン大ホール)



*ある大先輩の舞踊批評家と夕食。戦前から戦後にかけて徴兵で東京を離れなくてはならずブランクになったという話をする。

*昨日、日比谷公園を散策したときに印象的だったのはベンチで横になる会社の営業の人たちの数の多さだった。新宿の浮浪者とはまた違うイメージを感じる。不況の現代社会だが、やはりエネルギーのベクトルに困っているのだろう。電車の中でもころぶ人が多い。身体感覚が麻痺をしてきているような印象を受ける。フラストレーションを開放するための文化として、舞踊文化は一役になっているところがあるのだが、舞踊表現にも社会は反映されてきているように感じる。つまり戦後の表現だと自我や内面といったタームで言われてきたことが異なる形で表現に現れてきているのだ。
例えば衝撃だったのは、今年の東京新聞の現代舞踊1部で1位に入っている横田佳奈子の「彼女的依存のバラード」(http://www.kk-video.co.jp/concours/tokyo2006_kessen/gen1.html)である。<彼女>と<的>という言葉をつなげるシンタックスの感覚もあるのだが、<依存>という現象とバラードが結びつくということに驚きを感じた。なかなか面白いタイトルだと思う。(ちなみに同じページで前澤亜衣子の作品も見れる)
タイトルはいわゆるコンクール調かもしれないが、視覚表現として面白い逆パターンというべき存在もある。小林泉の「薔薇に憑かれた白い蝶」(http://www.kk-video.co.jp/concours/saitama2006/modern_adult.html)はその1つだ。この作品はいわゆる正統派の作品を踊れる踊り手が試みた作品の中で、コンテンポラリーに近い作風、演出を用いているものだ。人生の中の象徴的なシーンを表現している各場面はモダンダンス世代の力強さやリアルな表現というよりはむしろ審美的な部分に表現を昇華してしまっている部分を感じる。小林は実力がある踊り手であるため活躍して欲しい存在だ。
最近、舞踏や90年代以後のコンテンポラリーダンスを見ていないのだが、現代の身体表現の中の力学と方向性、その位相をもう少し明確に考えて見たいなと思うこの頃でもある。