東京シティバレエ など

どっきり

するやら、うれしかったのが、この間、ある舞台で踊っていた実演家の方がこのページを読んでくれていたことだった。「まだ稽古を!」とおっしゃってくださり、おもわず苦笑。

で、ある編集者が私にこの間話してくれたのが、いわゆる紙媒体に書くようにきっちし書くようにということだった。Blogはログみたいにかけるという味があるのだけど、松岡正剛の例もあるし流さないで書こうかとおもったりする。
そもそもダンスライターにとってBlogとは修練の場である。新聞などいわゆるジャーナリズムから入った書き手は一晩で原稿を上げる。レビューの書き手も20分で仕上げるというベテランもいる。
レビューというのは短い時間に数を上げるのに非常に適している。一方で、いわゆるクリティークは見る側の定見がものをいう。戦後の舞踊批評は山野博大によれば、(戦前の)先輩たちの啓蒙主義的な批評について、(20世紀舞踊の会の批評家たちの)我々は新しい世代の批評を提起したということである。
事実、この発言を裏付けるように、彼らの評は日本の洋舞の舞踊批評の原点にあたる永田龍雄らのものとは異なっている。戦後の舞踊批評に対する見解は、大体、市川雅の印象批評を支持する立場か山野、うらわまこと、桜井勤のようなレビューを支持する立場に大きく分かれる。前者の支持者は学者や若者が多い。印象批評の中にある洞察や真理にひかれているケースが多く見られる。後者の支持者は実演家に伝わりやすい書き方からか実演家が多い。舞台に対する平明な見解も評価の理由といえる。
日本の音楽・舞踊ジャーナリズムの創始者にあたる村松道弥は「私の舞踊史」という自伝を残している。村松の文献を見ているうちに、近代から現代に流れる舞踊批評の流れに関心を持った。村松は会魔と呼ばれるほど多くの会をオルガナイズした。戦前、村松らは2月会といった会を通じて、舞踊批評家や黎明期の洋舞家たちと語り合っている。当時はまだ蘆原英了と光吉夏弥は親しかった。戦後になると村松らは舞踊ペン倶楽部といわれる組織をつくっている。このグループには蘆原、光吉以外に現在活躍する批評家としては山野博大、石川健次郎などが在籍をしていた。そしてこのグループが解散をした後に舞踊批評家協会が生まれるのだ。彼らがいかに活動をしていたのかということに関心があったため、私も舞踊批評家協会に加わってみたのだが、なるほどこういう場で彼らが活動をしていたのかということが解かった。

私の知人の中に学生による電子メールやBlogの文体の特徴としていわゆる「書き言葉」と「話し言葉」が混在をしているということを指摘する人がいた。その人は「エッセイのようだ」というのであるが、こういう新しい文体の模索などというのも新しい舞踊批評のフロンティアといえるだろう。すでにこうやってサイトを通じて批評活動をすること自体がハイパーテクストライティングといえる。

Blogの路線を少し修正することを考えたこの頃である。

東京シティバレエ 「ラフィネバレエコンサート」

後日、当ページに批評をアップ

ティアラこうとう