フィジカル・シアター・シリーズ Ⅱ Dance at the PARKING Double V

「Dance at the PARKING」(C)写真:広

フィジカル・シアター・シリーズ Ⅱ
Dance at the PARKING Double Vision

自然な日本人らしさと丁寧な作風

構成・演出:上島雪夫
振付:上島雪夫&all members
出演:上島雪夫 青木裕記 辻本知彦 加賀谷香 山田海蜂 清家悠圭

上島雪夫を見るのはおそらく2回目であろう。批評活動を始める以前か
その前後に見たことがあるように記憶している。しかし公演に足を運んだのは
これが初めてだ。
「Double Vision」は海外で上演されている作品。サラリーマンの日常と悲哀
を描いた作品としては、年間ある程度上演されるパターンともいえる内容だが
高度経済成長期を支えた父や兄へというテーマの設定がいい。つり革にもたれた
男(上島)が登場。まだ見ぬ娘や家族を想いながら働いている。男は日常生活
の中であくせく働き、疲れ倒れる。幻想の中で、女たち(山田海蜂、加賀谷香)
と踊り、男はやるせない悲哀を見せる。やがて過労から倒れ他界をしてしまう。
加賀谷はベテランらしく大人の女を描く踊りが印象的だ。この踊り手はベテラン
らしい職人的な「らしさ」というよりは舞台への純粋な執念が心地良い。
重要なことはモダンダンスやコンテンポラリーダンス、舞踏でもしばしば上演される
サラリーマンの悲哀を描いた作風を持つこの作品が海外でどのように評価をされた
かということだろう。それはきっと70年代の高度経済成長期を支えた日本人男
性のイメージであり、現在の日本文化としてのイメージとして解釈されたはずだ。
日本のサラリーマンのイメージは今なお日本人的なものなのであろうか。
「Dance at the PARKING」(写真)もまた日本人らしさを感じさせた作品だった。
物語性がある作品というよりは公園での風景を淡々と描いたような作品である。
公演にたたづむ若い女性(清家悠圭)が出会う不思議な世界にはユーモラス
な日本人の姿が多く現れる。清家が自身を模索し、孤独に踊る中、ヒップホップ
を踊るストリートダンサーたちが現れる。ストリートダンスを
踊っていたのが原点である上島らしい風景だ。
ヒップホップというアメリカ文化のダンスとファッションを吸収する踊り手は
グローバリゼーションの現代では日本でなくても韓国や台湾、フィリピンなど
世界中に無数にいるだろう。そんなアメリカナイズされた男たち(辻本知彦、
青木裕記、上島)はだぼだぼなズボンにトレーナーと実際に下北沢や渋谷で
踊っている若者たちのような出で立ちだ。
それぞれのユーモラスな踊りの表情とラッパーのようなスピード感あるギャグに
会場が大きく沸く。男たちがこの公園は自分の場所だとそれぞれ主張をしあうそ
の一方で女は困惑した表情を見せる。女たちやカップルと次々に登場する人々
の中で女は少しづつ自分の姿を見つけようとする。カップルのシーンで女役
を踊った山田は元新体操のオリンピック選手だが、次第に演技力を身につける
ようになりダンサーとしての成長を見せていた。
 清家は日本人だが、台湾人や中国人のような面立ちもあるオリエンタルな
踊り手だ。同じ様にオリエンタルな雰囲気を持ったアーティストたちが近年
活躍をしている。例えば音楽や映画では一青窈が印象的だ。一青の風貌は
日本人でありながら、オリエンタルな側面(父が台湾人)という側面を
感じさせる。この作品は台湾や韓国の若手作家の作品とも近い作風がある。
だが成熟した上島の作風や豊かな時代を感じさせる踊り手たちは日本人らし
さを感じさせた。
 モダンダンスやポストモダンダンスと異なった作風を持つ両作品はコンテ
ンポラリーダンスと考えることが出来るが、同時代のアジアの作家やグローバル
な時代の世界に広く広がっている振付言語を踏まえてみるのであれば、
その評価の理由は丁寧な作風と「ごく自然な現代日本」を描いた日本人性にあるの
ではないか。「萌え」やアキバ系、少し前のスーパーフラットといったポップカ
ルチャーも現代日本では重要なキーワードである。しかしその一方で、こんな
ごく自然な世界でも十分に日本を語ることが出来る様だ。

(オリベホール ソワレ)

Photo:「Dance at the PARKING」(C)広瀬元彦