Noism「春の祭典」

Noism「春の祭典
オリンピック開会式とデモで揺れる東京で金森穣版「春の祭典」が初演された。サナトリウムの様な空間に椅子が一列に並べられている。アルトーカントールに通じるような20世紀現代劇的な演出だ。重々しい雰囲気のダンサーたちが現れると、抑圧からの解放を求める世界が始まり、やがて有名なこの曲が流れだす。彼ら彼女たちのメイクと衣装が見事だ。振付がカオスとカタルシスを導いていく。
ニューノーマルな社会生活が叫ばれる中、格差問題や政治の動向から社会的に不安が立ち込めている。移住をしても、首都圏に残留しても、オンラインでも、対面でも、その選択の方向と意義が問われ、バレエ芸術もまたその最中にある。この時局下において抑圧と解放というモチーフに興奮した客たちは飛沫防止のために歓声を一切上げることはできない。その代わり多くの観客がスタンディングオベーションで応えていたのは、興味深い現象だ。
上演の成功は美術や空間を通じた演出による支えもあるが、民衆の心情を代理表象したような踊り手たちの熱演である。目の前の世界的イベントとデモの背景にみいだそうとしている解放を本作の向こうに見たからではないだろうか。このタイミングでみる事ができ嬉しい。決定打といえるような上演であった。
(7月25円、埼玉県 彩の国さいたま芸術劇場 大ホール)
加藤 みや子、羽月 雅人、他17人
 

日本バレエ協会「全国合同バレエの夕べ」2日目

日本バレエ協会「全国合同バレエの夕べ」は2日目をみた。今年のダヴィッド・リシーンの「卒業舞踏会」は録音音源を用いている。演出に工夫を凝らし、細かなドラマを多く盛り込むことでしっかりとした上演を導いていた。下級生を描いた斉藤耀・佐藤祐基、水友香里・守屋高生、鼓手の牧村直紀らがしっかりと盛り上げた。今年のフェッテ競争は巧みな荒木彩とフレッシュな藤野未来だが1つの見どころといえる。
 井澤諒が振付・指導をした「パキータ」は渡辺恭子や横澤真悠子、百田朱里を楽しむことが出来た。玄玲菜「La forêt」は名曲と共に象徴主義的な作風を楽しむことができるスペクタクルだ。ラ・フィーユ(林田まりや)とラ・メール(竹中優花)を軸に関西の踊り手たちが情景を彩った。
 コロナ禍の最中とは言え全国のバレエ界の動向を感じ取ることが出来る内容だった。苦難の中でもバレエ芸術を続けていくことは重要だ。
(8月8日、新国立劇場・オペラパレス)

追悼・長谷川六

追悼・長谷川六 
山野博大がコロナ禍の2月に他界した翌月に長谷川六が3月ひっそりと旅立った。
長谷川は高等師範(現・筑波大学)の先生で警察も指導していたという剣道家の家に生まれた。本人も剣道はたしなんだことがあるというが、芸術の道を選ぶ。女子美術大学では彫刻を学び、同級生に児童舞踊の賀来良江がいた。後輩に岡本佳津子がいたが、岡本は学校ではなくバレエを選んだ。学生時代にこの仲間たちと砂川闘争などにも接した。この学生時代の仲間たちとは後年まで個展などを行うこともあった。1957年夏に世界青少年学生友好祭に芙ニ三枝子、石井かほるらと共に参加しモスクワに滞在したこともあり、この時に「半島の舞姫」として知られる崔承喜と接している。やがてある男性のジャズダンサーが”お目当て”で足を運んだ全日本芸術舞踊協会主催第6回新人舞踊公演(1959年5月24日、第一生命ホール)で土方巽の「禁色」と出会い大きな衝撃を受ける。舞踊について書き手が少なかったこともあり、少しづつ書き始めるようになった。そして1967年に業界誌の「モダンダンス」を30代頭に刊行する。当時、池宮信夫や山野博大、うらわまことらによる戦後派発の舞踊メディア「20世紀舞踊」がすでに舞踊界にニューウェーヴを起こしていたが、長谷川のこの雑誌がそれに連なり新世代の渦をつくりだしていく。この業界誌は1976年に「ダンスワーク」と改称する。当時、エドウィン・デンビーの様にこの語を用いる批評家はいた。執筆や編集の傾向は、前衛を扱う業界誌であり、桜井勤や山野博大のように全体を視野にいれて活動するというわけではなかった。現場で写真撮影をすることも少なくなく、土方巽などの写真の重要なものの中には長谷川のものもある。
戦後日本のダンス・アートの立場を高め、世界へ発信できるようにするために尽力をし続けた。また活動した時代が1970年代のように戦後の洋舞界の非常に良い時期だった。結果として、舞踏をはじめとする戦後派の才能の一部が欧米のアートシーンの中枢に食い込むようになってくる。日本で社会的にあまり知られていないが欧米では知られている才能たちが台頭するようになった。その基盤のような役割を結果として担うようになっていた。「ダンスワーク」の紙面には彼らを支えることになる、戦後の身体思想の影響を受けた論考が多く掲載されていた。
長谷川の功績は、編集などで活動を共にすることが多かった堀切敍子によると、それまで男性が多かった舞踊評論の中に女性の書き手の場をしっかりと確立させたということだ。また市川雅の評論集「行為と肉体」(1972)の編集でも知られ、市川とのパートナーシップは戦後のポストモダンダンスや舞踏の登場とともに黄金時代を築くことになる。彼女は自ら踊りを学ぶこともあり、芙ニ三枝子や笠井叡に学び、自作を発表したり作品に出演することもあった。踊るときは長谷川一五(いちご)などユニークな芸名を用いていた。加えて独学で建築士の資格を取得し、自ら設計した家に住んでいた。どの部分か明確ではないが、森下スタジオの図面を引いたのは自分だと本人は語っていた。
やがて長谷川は市川と袂を分かつことになる。市川についていった書き手の多くが彼の方向性に沿うように90年代以降のダンスブームの中で、コンテンポラリーダンス・舞踏やバレエの評論を担うことになるが、長谷川も自らの方向性で活動し、最晩年まで雑誌の刊行やダンスに関する企画を重ねた。ポストモダンダンスや舞踏の黎明期から現場で活動をしていたため、今日からみれば、市川系列の仕事のみならず、その原点の一部に存在する長谷川や仲間たちの仕事も視野に入れて考察することが重要といえる。一連の評論家たちが活動をする場をジャーナリスト・編集者としてしっかりと構築してきた。彼女が身銭を切って海外のアートやダンスの情報を収集し続けたことが、今日の洋舞界にとっても大きな糧となっている。
長谷川はダンスの学校をつくることを夢としていた。そこで実際にPASダンスの学校をつくり、運営したことも大きなことだった。これは個人的な関心というよりは市川との見解の違いでもあった。長谷川は日本のダンスを考えるうえで、教育や学校から変化をするべきだと考えていた。市川の様に1990年代までの日本の公的な舞踊教育の場としての学校でのカリキュラムに飽き足ることなく、根源からカリキュラムを考え実行しようとしていた。同じようにこちらでも身銭をきって運営し笠井叡や、石井かほる、山崎広太などの講師をゲストに迎え、バレエ、モダンダンス、ジャズ、コンテンポラリー、オイリュトミーなど、幅広くクラスを展開した。この学校はこの国の中でも独自な存在だった。しかし舞踊教育の側からは冷たくもされていた。しかしこの私財を投じて実装した試みからは何人もの人材がでてきた。ジャーナリスト・編集者としての活動のみならず、雑草のような強さと行動力で、洋舞界で様々な試みを形にしてきたということができる。冥福を祈る。
 
追記1
90年代に三浦雅士が「ダンス・マガジン」の編集長になったり、市川雅がいろいろな才能をダンス界へ入れてきた経緯で、市川系列のように動いていた批評家・研究者たちからは長谷川は常に攻撃されていた。市川が長谷川のオルガナイズしたり場を立ち上げる力を怖れており、「長谷川は気をつけろ」といっていたぐらいだった。保守的な石井達郎や長谷川より若い党派的な國吉和子は市川に言及しながら常に長谷川を攻撃していた。しかし長谷川は前向きだったのも事実である。1960年代後半以降のダンス批評を考えるうえで、市川だけではなく、長谷川とのバランスの変遷を考えることは意義がある。
 
追記2
「戦災により上の年代は中川鋭之助と池宮信夫ぐらいしかいなかった」(山野)というが、戦後という疾風怒濤の時代を生きた1950年代の若手は貪欲で土方に象徴されるように「自分のものは自分のもの、人のものも自分のもの」であったと指摘する声もある。
60年代の反体制派の山野、若松美黄、長谷川を並べてみて、彼らが成したことについて考察してみると、戦後の新体制と一時代を築いたのは事実と考えられる。戦前の舞踊界の系列と因習に対し時に反旗を翻すこともありながらも新しい時代と方向性を生みだしてきたところがあった。しかしアジテーターとはいえ逆にこの3人はいずれも派閥のようなピラミッドを再び作り出してしまい、最終的には自分たちの利害を守るために必死になっていた。ポストモダンで語られるような新社会像のネットワークやノマドとはまた異なっていた。結果的に自分たちもかつて批判した舞踊界の大家のようにになってしまった”いわゆる案外古い人”たちだった。土方のように芸術界の既存の価値をひっくり返そうとし続けた才能と比べると、洋舞界の新保守として生き、最終的に”洋舞界のみで通用する大家”に陥ってしまったのも事実だ。

さようなら 山野博大

 
山野博大氏がコロナ禍の最中の2021年2月5日に84歳で急逝した。 年代が近い舞踊人には、若松美黄、長谷川六らがいる。
慶應義塾大学出身ということもあり、“住んでいた千葉の市川に山野町という町がある”という風評がまことしやかに語られてきたがそれは全くの偶然のことで、実際には東京の下町に生まれだ。 現在のJR市川駅から日吉・三田にある慶應義塾に通う事になる。 中学時代には学校の役職に折口信夫門下の池田弥三郎がいた。 1学年上には同じ地域出身の浦和真や後に経済学者として知られる母校で出世した高橋潤二郎がいた。 山野の同期生には母校で教えた経営学の井関利明の名もある。 タレントの加山雄三、音楽の平尾昌晃、実業家の峰岸慎一、政治家では橋本龍太郎・元首相が同年齢だが一期下になる。 舞踏との関係でみると、映像作家の飯村隆彦も年代が近く、少し年下に現代詩の岡田隆彦吉増剛造がいる。
中高時代の山野博大のクラスメイトに小牧バレエ団で踊っていた男性ダンサー・酒井達男がいた。 彼のチケットを買ってバレエを見に行ったことがその歩みのはじまりだった。 石井漠の次男の石井鷹士やオペラで活躍する鈴木啓介もこの時代からの仲間だ。 批評を書きたいと思う前にモダンダンスを芙二三枝子に学んだこともあったようだ。 芙二と山野は最後まで師弟関係だった。 当時の若者は早い段階から情報を求めて海外のダンスメディアを読んでいた。 当時は私大はまだマスプロ化する前で慶応義塾大学は凄く偏差値が高い学校ではなかった。
大学に進学すると大学の文化部の慶應義塾バレエ研究会のメンバーになる。 当時、バレエは先端文化であり、学生たちに人気があった。 そこで蘆原英了らの協力によりバレエを学ぶ・上演する部があった。 指導教授は戦後の「白鳥の湖」初演で活躍した松尾明美だ。 在学中より音楽新聞に投稿し、まだ10代末の山野の批評はすでに完成されていた。 入学したころに実験工房によるバレエ実験劇場の「未来のイブ」が上演されている。 山野が批評家を志すきっかけとなったのはノラ・ケイが出演したアントニー・チューダーの「ライラック・ガーデン」だった。 この時の舞踊にしかできない感動を最晩年まで良く語っていた。 そして20歳の時に懸賞論文が掲載になり1957年に長老の牛山充と交替する形で舞踊批評家として活動する開始となる。 村松道弥が選んだこの論考で彼は“舞踊家は演目の上でもっと観客の事を考えて工夫して欲しい”と主張した。 浦和真や八木忠一郎もこの研究会が刊行していた批評誌「イルミナチ」や音楽新聞に寄稿している。 この批評誌は浦和が編集をしていた、戦後派の洋舞評のさきがけと言えるリトルマガジンだ。 山野は在学中に図書館で舞踊批評家・光吉夏弥とも知り合う。 授業にでるよりダンサーの稽古場へ行ったり、公演に潜り込もうとチケットもぎりのおばちゃんと追いかけっこもした事もあった。 彼の卒論は法学部出身らしく舞踊の著作権に関するものだった。 渥見利奈や三輝容子といった戦後最初の新人ダンサーたちはデビューしたての年下の青年批評家・山野と踊りの見方を語り合った日々を回想していた。 この辺りのことはうらわまこと編「私たちの松尾明美」(文園社)やうらわまこと・山野博大監修「復刻版 20世紀舞踊」(20世紀舞踊研究会)に詳しい。
やがて山野は1959年に大学を卒業する。 就職活動では出版社を希望したが、決まったのは発足したばかりの銀行業の政策金融機関・中小企業信用保険公庫(現・日本政策金融公庫)だった。 以後、二束の草鞋を履くことになる。 そしてその頃に舞踏誕生にきかっけになる出来事に当事者として立ち会うことになる。 かの過激な女流アヴァンギャルドにまつわる一節だ。 “物議を醸しだして大きくなってきた”とされる若き批評家の最初のヒットは新卒1年目のことだった。 結果として山野は戦前からありすでに確立したメディアになっていた音楽新聞を離れる。 音楽新聞には40歳を過ぎて批評家になった桜井勤が若手と交替し書き始める。
執筆メディアを失った山野は落ち込んだというが、池宮信夫らと20世紀舞踊の会の設立に立ち会い、早々に「20世紀舞踊」、音楽舞踊新聞とニューウェーブの側から論を張るようになる。 舞踏誕生に関係する記事「芸術批評のモラル」やこの時代の多く試みは勢いがあり良い評論だ。 この頃、山野はギンズバーグの詩と土方巽を賞賛していた。 “毎日ように劇場に通うと観劇に時間がかかり大変だが舞踊を書くことには意義がある“と発言する一方で、「1966年は舞踊で食べようよ」といったことを述べるなど20代の山野は初々しくもはつらつとしていた。 山野のパートナーはこの時代の舞台写真を多く残した山野和子だ。 二人の結婚を祝い20世紀舞踊の会は写真・評論集を刊行する。 和子は社交性が高く二人は舞踊界を支えた。
そして山野はポストモダンからコンテンポラリーまで戦後日本の洋舞界の良い時代を生きた。 以後、戦後~21世紀初頭の舞踊界で活躍した。 「20世紀舞踊の会」の同人・設立メンバーであり、舞踊ペン倶楽部から舞踊批評家協会へと職域団体で事務処理を献身的に行うなど活動を重ねてきた。 オン★ステージ新聞は音楽新聞にいた谷孝子に山野が共同出資者となることでスタートした業界紙だ。 長谷川六は山野のことを信頼できると述べながらも、"日本の業界紙の広告は公演主催者から取られることが多い"ことが山野の評を変化させてしまったと述べる。 山野自身もまた舞踊メディアのスポンサーの問題については村松道弥以来続いてきた問題で、なんとか変化させていくことが大事だと述べていた。 この課題は未来へと託されることになる。 正田千鶴のように山野の評が若き日から変質したことを厳しく指摘する舞踊家もいた。 先端を求める若者から、次第に洋舞界全体を細かく論じるようになり、やがて新世代の台頭の中で今度は立場を守る側となり、と彼も齡を重ねながら、時代とその限界の中で進む事になる。 惑わずやがて天命をしるが如く、時代と呼応しながら感覚はポストモダンへ、やがて論調は新保守になっていく。
山野はおそらく記事掲載数において近現代日本のこのジャンルの批評家の中で群を抜いているのではないか。 二十歳前後から最晩年まで現場でどう作品を見たかといことが記録に残っている。 実質的に60年以上現場で執筆をしてきた生き字引だった。
山野は若き日には数少ない光吉夏弥の弟子だった。 やがて“取り上げるものをもっと絞るべき”だとした光吉の下を去り業界紙を中心に現場で活躍することになる。 写真評論や児童文学の翻訳でも知られた光吉は自ら新聞社へ原稿を売り込んで回った草分けの一人だ。 業界紙とつながって活動を開始したばかりの学校の後輩にあたる青年・山野を自分と同じ様々なジャンルで活動するタイプに育てたかったのかもしれない。 だが、彼は自らの道を選んだ。
やがて江口博の導きで文化庁・芸術祭や様々な委員を歴任することになる。 江口は学者の光吉や蘆原英了とは距離があった。 だが山野は芸術祭の日本的な体質が嫌になり一度、文化庁を批判して離れる。 彼は江口の葬儀についてあんなに寂しい葬儀はなかったと述べる。 しかし再び山野は文化庁の仕事に戻ることになり、ついにコロナ禍の最中の2020年度文化庁芸術祭の委員長になった。 一連の選択が山野の活動と評にも影響を与えることになる。 そして後年になると大学でも教えた。
 彼は批評活動を重ねながら、最後は銀行の支店長までなったことから金融に精通しており、助成金や予算の配分においては同業者の中で類を抜くセンスを持っていたとされる。 客席で出会った政治家や官僚、財界人、VIPと交流する時は銀行業で養ったビジネス感覚が冴えた。 戦後の文化政策の歴史とともに、近年の芸術文化振興法や劇場法の時代まで、その枠組みの成立と関わることもありながら歩んできた。 中小企業信用保険公庫の会報にも足跡を残している。
山野の没後にSNSで流れたコメントには多くの人が「分け隔てなく接してくれた」ということを記している。 劇場客席で知り合う重要な関係者とのコミュニケーションやロビー活動も含め献身的に洋舞界を広げようと生きていた。 洋舞界の事となると利害にとらわれずにまず動くオルガナイザーでもあった生きざまは同時代の舞踊人に通じるところがある。
山野が若き日はまだ山本久三郎や永田龍雄といった帝国劇場の生き証人ともいえるモダンマンの大御所がまだ健在で、何か新人が物議をかましても“まあまあ”ということでいろいろ自由だったという。 やがて舞踊批評は業界紙の広告収入の問題もあり、そのように風通しを良くしたり、庇う者もいなくなり、現代の様に売り込みのすっかり売文のようになってしまった。 今日でも辛口のうらわまことの評は若き日の「20世紀舞踊」の時代と通じるものがあり舞踊界に対する提言がある。 彼らのような評が中間層の中から次第になくなってきた。 山野はそんな時代の中を歩きながら、最後の最後まで小さな舞台に至るまで、洋舞を中心に舞踊のみ様々な公演評を書き記録を残し続けた。 それが光吉や江口を経て確立した彼のスタイルだった。
執筆メディアもこだわらずに業界紙から一般紙、小さな雑誌、果ては様々なウェブサイトにいたるまで、本当にいろいろなところに足跡を残している。 いわゆるカード式だった光吉の方法論を踏襲しながら舞踊界の様々なデータをつくっていく作業も行った。 そのデータは各年鑑・年表に活用されている。 舞踊年鑑の為の公演情報データや舞踊人の連絡先リストをつくり、関係者へ提供・公開することもあった。 定期的な郵便物でデータを提供してくれていた時期があり、私のところにも公演情報データは月に何通も送られてきていた。
洋舞界のイメージがあるが、邦舞のことも熟知しており、舞踊ペン倶楽部時代に松本亀松と交流した話をしてくれた。 戦後の日本舞踊の良い舞台に接し、国立劇場の歌舞伎公演にもよく通っていた。
GHQ統治を経て民主化へと進む戦後日本を生きた1950年代後半の若者らしく、愛用のペンや時計といった身に着けるものの趣味はアメリカンなデザインで何よりビールを愛していた。 アサヒスーパードライザ・プレミアム・モルツや、東京で生まれのハートランドは好きな銘柄だった。 鮮やかな味わいとその意味合いを見抜く目を持っていた。 村松道弥らが舞踊人の会をつくり集っていた時代に末席にいたという山野は、関係者と呑むことも好み、公演を観た後はワインではなくビール派だった。 実業家が高級店でなく庶民的な居酒屋を選んで仕事の会話をすることに通じているのかもしれない。 おかげさまで私もビールに詳しくなってしまった。
何しろ私が村松の下で活躍した前甸明俊と知り合い音楽新聞に書き始めたとき、そこには松尾明美慶応義塾バレエ研究会の卒業生がいた。 石井鷹士や石田種生、浦和らがいる中で対抗紙で現代舞踊を書いていたのが山野だった。 現場で日々一緒になった。
若き日から詩に憧れており20世紀舞踊の会でも詩に関するイベントを行い、舞踊人による俳句の会を主催する横顔もあった。 山野は江東区芭蕉記念館の投稿句に入選したこともある。 数年後、私も投句してみたら入選したこともあった。
批評家宣言をした1957年から2021年まで数えてみても64年間はある。 桜井勤が述べた「舞踊界で修行をする」幸運に恵まれた若者が送ることができた幸せな一生というべきではないだろうか。 生前の姿は「踊る人にきく」(三元社)にもまとめられている。
1950年代と比較してみると洋舞界は成長を遂げたが、評論も様々な制度もまた課題が残る。 我々はこの半世紀以上の時代の文化について調べるときに彼の批評を目にすることがあるだろう。 事実、戦後日本の文化を論じる上で、彼の評が予想しない文脈で時折引用されていることを目にすることがある。 山野は初志貫徹の生き方で日本のポピュラーカルチャーの一角を記録にするという意味で大きなことを成し遂げた。 戦後日本の文化史の一頁を彩るこの才能の評を読み解きながら、我々は戦後日本の劇場をくまなく歩き、踊りの魅力を考え発信し続けた一人の男の姿に出会う筈だ。 冥福を祈る。

薄井憲二先生のお別れの会

薄井憲二先生のお別れの会(芝パークホテル・ローズ)

 薄井憲二先生のお別れの会が先生が良く宿泊されていた芝パークホテルで行われた。バレエ界を中心に国会議員・舞踊団体の幹部など関係者が多く集まった。日本社会で良く知られているダンサーでは黒くシックに装った吉田都さんや平服のジーンズで現れた熊川哲也氏の姿もあった。舞踊界のみならず電通など各界の関係者から花が寄せられた。
 薄井先生は多くのバレエに関心がある人達と手紙なども含めやりとりをされていた。ある先生は薄井先生と10年以上手紙だけでバレエについてやりとりをし、15年ほどしてやっとお会いしたという。バレエを学ぶ・研究をする人たちの国際的なつながりの大きな結節点であった。同時にバレエを社会へ発信する上で常に情熱的に大きな役割を果たされていた。
 先生は良く知られているようにシベリア抑留を経て生還した日本人だった。その悲惨な生活を通じてロシア語を学んだところがある。ロシアに対する気持ちは最晩年まで本当な複雑なものであり平和の大切さを主張していた。私は南方で同じように抑留されその時の演劇経験から後年に舞踊批評家になった後年の桜井勤先生の付き人をしていた。故に抑留のような経験を経た人間の強さと生きる力については薄井先生に接した時もすぐに強く感じた。
 先生は師の東勇作先生が踊った「牧神」がきっかけとなりバレエの道に入られた。最晩年の映像で仙台に東先生の銅像を九州から移転をさせる時に「東勇作ほどの存在を私は生涯に本人とあともう1人しかみたことがない」と述べている。東が踊った「牧神」については彼が日本で活動をしながら多く調べた情報に基づいている。戦後になって正しいバージョンが上演され8割正しいものだったという。このことを考えるとその存在の凄さを感じ取ることができる。東に限らず蘆原英了先生を含め”洋舞界のパイロットたち”が成し遂げたことは大きかった。
 私事になるが、生前良くお電話をいただいた。夜も夜半になろうとしているこんな時間に誰がと思って電話口にでると「バレエの薄井です」と、いつもの元気な声がはじまり、それからバレエについて小一時間ほど電話で話すことが多かった。先生はいわゆる夜型で夜に研究をされていたのだ。後年の講演のためのリサーチに協力したこともあり、先生からのリクエストにそって資料をアーカイヴ・ライブラリーで閲覧しドキュメント類を送ることがあった。先生からの調査案件に付随する情報は貴重なものであった。また情報を得るプロセスや論証の過程も見事なものであった。私の研究にも協力いただきインタビューなども実現できた。先生は学校などには所属していなかったが、研究の側においても私の師の一人ということができる。
 先生は古美術の仕事で実績を残した舞踊人の一人でもある。美術展の図録などに薄井先生の名前が残っているケースもある。
例えばこんな本がある。
古代エジプトの壁画 / 薄井憲二解説
東京 : 大日本絵画, 1982.7
 美術の仕事をしながら海外へ渡航し、貴重な作品の上演をみたり、バレエに関する一大コレクションを収集された。これが兵庫県立芸術文化センターにある薄井バレエ・コレクションだ。6500点以上のそのコレクションは私も閲覧したことがあるが実に見事なものだ。ノイマイヤーがコレクターとして先生のライバルの一人だったことも語られることがある。
 私の原稿・研究がきっかけになり、先生は古美術のマーケットから資料を手に入れられて、「吉田君、日本のバレエ界にとって一つの資料になるだろうからあの資料を購入しておいたよ。兵庫に入れておくから見に行くと良いよ」とお電話下さった。その頃はこのコレクションの目録は刊行中だったこともあり、その資料の事も目録に記載されている。
 今でも客席で多くの関係者に貴重なバレエの情報、正確な年代で作品や出演者、その時代のバレエ界について惜しむことなく語り続けた先生を思いだす。それが多くの人々をバレエへと導き続けたのだ。本当にありがとうございました。あの世で東先生や有馬龍子先生、蘆原先生、そして洋舞界のパイロットたちとバレエについて語っていてください。日本の新世紀のバレエ界の為に尽力します。

シティ・バレエ・サロンVol.6

東京シティ・バレエ団「シティ・バレエ・サロン Vol.6」
 今回の本企画では女性振付家が活躍をみせていた。会場となった豊洲シビックセンターホールは演出によってはパネルを外すことで劇場の中からレインボーブリッジを遠望できる演出を楽しむことが出来る会場でダンス公演が増えてきている。渡邉優のシンフォニックバレエ「Blue & White」はゴージャスな夜景の光と舞台照明、白と青の衣裳の踊り手たち(中森理恵、飯塚絵莉、加瀬裕梨、吉留諒、吉岡真輝人、杉浦恭太)を楽しむことが出来る良作だ。草間華奈「孤独の先に…」は少女(松本佳織)の歩みを綴った詩編に基づきながら、主人公と紫色のキャラクターたちが音や身体の表情の変化を通じて描きだしていく丁寧な作品だ。二作品とも色調を上手に用いた演出といえる。
 中弥智博「numero5」は、オールド・ファンには舞台の上で食べるのは良くないとされることもあるとはいえ、野菜を食べる場面を可愛らしくわざとコミックに入れてみたり、円を描き手拍子と共に弾けるなど、一般的なバレエ・ダンスの構成にみられない場面を多く取り入れた力作である。男女の世界を描いた石黒善大「夜、」と共に現代美術を用いた演出、接点を模索していくと広がりがでてくると考えられる。浅井永希「Nostalgia」はよりシンプルに象徴的な物語に絞っていくと多義でありながら明快になるともいえるが、ダンサーたちの演技は素晴らしかった。
 5作品いずれも日本のバレエ界の現代のスタンダードな作風と比較してみると、それぞれの個性と発想の萌芽がある。それが大きく育つ日が楽しみだ。
(9月30日、豊洲シビックセンターホール)

選抜新人舞踊公演・初日

現代舞踊協会・選抜新人舞踊公演・初日

 ソロは伊藤有美の「きらきら星変奏曲」(モーツァルト)の面白さを捉えユーモラスに演じた『戯れ』と白い花園と空間を象徴的な演出を通じて活かした小室眞由子『儚き香り』が白眉だ。ドラマと構成が映える片山葉子『偽りの影』と山之口理香子『記憶のカケラ』も優れている。群舞では川村真奈の新鋭振付家としての振付とクールな感覚が反映された『電気羊を数えておやすみ』は新世代の舞踊表現といえる。
 池田美佳・山口華子らと並ぶ新時代の才能の川村真奈、小室・片山・矢之口ら若手の感性は10年前と大きく異なる。しっかりとした構成と繊細な感覚を兼ね持つ一方で、厳しい時代の中での舞踊活動を重ねているだけあり一味違うものを感じるのも事実だ。コンテンポラリーという既存の枠組みでなく、新しい枠組みからこれらの作品を読んでいくことが重要だ。

(9月29日、新国立劇場・小劇場)